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石田三成から徳川家康が引き継いだ意外なもの

 徳川家康は本当に「百姓は生かさず殺さず」と言ったのかを考えるシリーズ。第2回目は、家康が最も活躍した豊臣政権下から江戸開府段階における標準的な年貢の税率はどれほどだったのか、見ていくことにします。

 

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三成と家康。敵対したふたりだったが、引き継がれたものもあった

 

 豊臣秀吉が天下人となり、全国の諸大名に号令できるようになって、太閤検地が始まります。検地自体はそれ以前からも、大名が独自の裁量によりその領地内で行っていたケースが見られますが、太閤検地は全国レベルで、しかも統一の尺度で行われた点で画期的と言えます。

 

 と同時に、各地でバラバラだった年貢の税率にも、一応のスタンダードができていきます。

 

 文禄4年(1595年)には徳川家康を含む5大老連署により、年貢の税率の基準が示されています。それによると、税率は3分の2、つまり66%でした。当時の言い方では、2公1民ということになります。(ただし、作柄の豊凶により、地域ごとで減免措置が講じられました)

 

 これは「天下領」すなわち豊臣家の直轄領を対象としたものでしたが、全国の諸大名もこれを基準として自らの領地に適用していったようです。

 

 現在の所得税は、年収500万前後で税率20%程度。これに消費税として別に10%負担する分を加えても合計30%。比べてみれば、当時の年貢がいかに高率だったかおわかりいただけるでしょう。全国の諸大名こぞって「百姓は生かさず殺さず」政策を採っていたわけです。

 

  実は戦国時代を通じてみると、5公5民(税率50%)が標準的だったようです。豊臣政権は、異例とも言えるほどの高税をかけていたわけで、これは裏を返せば、相次ぐ大規模遠征に伴う戦費調達に四苦八苦していたのではと推測されます。

 

 これまで豊臣政権は多くの領地と全国の金山・銀山、主要港を押さえて、財政的には豊かだとされてきました。ただ、収入はあっても、一方で出費がかさめば、収支バランスは合いません。

 

 考えて見てください。大阪城築城に加えて、九州征伐、小田原征伐、朝鮮侵略(文禄・慶長の役)と、長期に、しかも大規模に兵員を動かすとすれば、それだけ金と兵糧がかかります。その負担を誰がしていたのか、後世の我々は思いを巡らす必要があるでしょう。

 

 江戸時代の初め、寛永2年(1625年)頃に書かれた秀吉の一代記『太閤記』の著者である小瀬甫庵は、その冒頭で秀吉を厳しく批判しています。秀吉はよく金銀を大名にばらまいたが、これは人の道にかなったことか、との問いに対する答えという形式で、それが示されています。

 

是は富るをつぎ、貧きをば削る意味也。何道に近かるべけんや。百姓を辛くしぼり取、金銀の分銅にし、一往目を悦ばしめ、余るを以て諸侯大夫に施し給ひしは、恵下給ふに非ず。

 

 【AMAZONリンク】『太閤記』 (新人物往来社刊、1971年発行)

 

 現代語訳すれば、「これは富む者をさらに富ませ、貧しき者を苦しめるという意味であり、人の道からは外れた行いだ。百姓に高い税を課して金銀の分銅にして、諸大名たちに分け与えたのであって、下の者には全く恩恵がない」という意味です。

 

 これから秀吉の一代記を始めようとする冒頭から、異例中の異例と言える厳しい批判。甫庵が太閤記を書いていた頃には、それだけ、秀吉時代の重税感がまだ社会に残っていたのでしょう。

 

 こうした豊臣政権の増税政策を担当する責任者が石田三成だったと見れば、ご本人の個人的な人柄は別にして、世論上、三成がいかに不人気だったか、推して知るべしです。重い年貢負担に悩まされた農民の間だけでなく、「軍役」という税を負担した諸大名の中でも「三成憎し」の世論が広がるというのも、当然の話でしょう。

 

 現代でも増税を推進する政治家や政党は、間違いなくその支持率を落とします。秀吉の死後、支持率を落とした豊臣政権が徳川に取って代わられたというのも、現代の政治に通じる話なのかもしれません。

 

 ただ、政権が豊臣から徳川に移動したといっても、当初の税率は豊臣政権時のまま踏襲されます。ここから8代将軍吉宗の時代にかけて、長期的には減税局面を迎えるわけですが、少なくとも家康の時代には「百姓は生かさず殺さず」政策が温存されていたわけです。 

 

【徳川家康「百姓は生かさず殺さず」の真意と真偽を読む】シリーズ

1 徳川家康「百姓は生かさず殺さず」の真意と真偽を読む

2 石田三成から徳川家康に引き継がれた意外なもの

3 伝本多正信著『本佐録』に見る江戸初期の税意識

4 徳川家康が実際に自分の領地でかけていた税率は?