徳川家康「百姓は生かさず殺さず」の真偽と真意を読む
徳川家康が遺したと言われる名言のひとつに「百姓は生かさず殺さず」があります。ただ、歴史好きの方の中には、これは家康自身の言葉ではないかも、と疑っている方も多いはずです。
では、これが全くのウソかと言うと、実はそうとも言い切れません。この言葉は後世、よく誤解されるのですが、当時の税(年貢)のあり方、考え方を知れば、なるほどと思える話なのです。今回のシリーズではこの言葉の真偽と真意について、探っていきたいと思います。
家康は「百姓は生かさず殺さず」と本当に言ったのか?
この言葉が家康の遺したものだと後世伝えられる根拠となった有力な史料として、『落穂集』があります。北条氏の重臣、大道寺政繁のひ孫に当たる大道寺友山が、享保12年(1727年)頃に著したもので、家康の関東入府の頃からの事績が書かれています。
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ただし、友山自身は寛永16年(1639年)の生まれなので、ちょうど島原の乱の直後、3代将軍家光の時代以降を生きた人物です。家康に直接近侍したわけではなく、あくまで伝聞という形で、ありし日の家康に関する事績を紹介しています。
この中に「秋先に至り収納の事」と題した一節があり、2代将軍秀忠と3代将軍家光の側近で長らく老中職にあった土井利勝が、領内を視察した上で、その家臣(古賀藩)たちに年貢徴収のあり方について触れた訓示を紹介しています。
ここで利勝は家康の時代の年貢徴収法と比較して、近年、そのやり仕方が甘くなっているのではないかと指摘した上で、「権現様流」(家康流)という年貢徴収の心得を紹介しています。
これによると、家康は天領での年貢徴収(当時の言葉では「収納」)を担当する各地の代官が秋になって任地へ赴く際には、直接会ってこう指示したそうです。すなわち、
郷村の百姓共は死なぬ様生きぬ様にと合点致して収納申付候
つまり、家康→利勝→家臣→友山という3段階の伝承によって、家康が「百姓は生かさず殺さず」と言ったと伝わっていることになります。
元亀4年(1573年)生まれの土井利勝が自ら書き残した話であれば、その若かりし頃には家康に直接接していたので、信憑性は高いのですが、その後、1世紀ほど時代が下り、2段階の伝承を経ているので、その分はかなり差し引かねばならないでしょう。完全に否定もできなければ、積極的に肯定もできない、ちょっとモヤモヤした話ということになります。
じゃあ、本当のところはどうなんだとなると、当時の年貢に対する基本的な考え方、そして家康がその領地において実際にどれほどの税率をかけていたか検証していく必要があります。次回はそのあたりを見ていきます。
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