グッと身近に来る日本史

読書でタイムトラベラー/時空を超えた世界へと旅立つための書評ブログ

伝本多正信著『本佐録』に見る江戸初期の税意識

 徳川家康は本当に「百姓は生かさず殺さず」と言ったのかを考えるシリーズ。第3回目は、家康の側近中の側近、本多正信著と言われる『本佐録』の記述から、江戸時代初期における為政者の税についての基本認識について見ていきます。

 

f:id:miyatohru:20190418195245j:plain

本多正信の著と伝えられる『本佐録』からは、当時の為政者の政治認識を読み取ることができる

 

 本多正信は、家康とは5歳ほど年上の天文7年(1538年)生まれ。家康の天下取りから幕政の基盤固めを主に内政面から支えました。その正信の著とされているのが、『本佐録』です。

 

 本佐録-国立国会図書館デジタルコレクション

 本佐録(『日本経済業書』巻1収録分)-国立国会図書館デジタルコレクション

 

 『本佐録』はもともと、2代将軍徳川秀忠が正信に「天下国家の盛衰、人君の存亡万民の苦楽、いかなるところより起こるぞ」と諮問、それに答えたものと言われています。そのため、「天下国家を治むる御心持の次第」とのサブタイトルがあって、具体的には7項目から成り立っています。

 

 ただし、本佐録は正信の著作ではないという疑念が昔から歴史界にはくすぶっています。ですがここでは、少なくとも江戸時代の前期、それなりの人物によって書かれたであろう政治指南書として、その内容に着目していきたいと思います。

 

 さて、この中の1項目に「百姓仕置の事」とあり、その冒頭、以下の記述が見られます。

 

百姓は天下の根本也、是を治る法有、先一人一人の田地の境目を能立て、籾一年の入用作食をつもらせ、其餘を年貢に収べし

 

 そしてこれに続くのが、

 

百姓は財の餘らぬ様に不足なき様に、治る事道なり

 

 です。とくに後半部分は、家康が言ったとされる「百姓は生かさず殺さず」に通じるところがあります。

 

 さらに注目すべきは、前半部分で、この時代の税に関する基本的な考え方が示されていることです。

 

 この部分を現代語訳すると、「まず土地の争いがないようひとりひとりの田畑の境界を明確にして、食用に次年度の種籾を加えた1年分の必要な米の量を計算し、その余りを年貢とすべし」ということです。つまり、「農村を維持していくだけの必要最低限の米を残して、それ以上はすべて年貢として徴収する」というのが、当時の年貢に対する基本的な考え方だったようです。

 

 これを裏付ける証拠として、当時の年貢の税率を「免合」と言っていたことがあげられます。たとえば、「免四ツ」と言えば、税率40%という意味です。

 

 なぜ税率のことを免合と言うのか、はじめは疑問に思ったのですが、当時の年貢に対する考え方がわかるにつれ、段々とその意味が理解できるようになりました。

 

 すなわち、免合の免は「免じる」ということです。特定の田畑から生産された米のうち、農村を維持していくための分を差し引く(=免じる)という考え方がベースにあったとすれば、話が見えてきます。

 

 ここからはあくまで私の個人的な推測ですが、本来的には農家側の取り分を意味していた免合が、5公5民(税率50%)が一般的だった時代にどっちがどうだか現場で混同されて、いつしか領主側の取り分(税率)を意味するように転用されていったと考えれば、つじつまは合います。

 

 こうした社会常識が当時の為政者の間にあったとすれば、「百姓は財の餘らぬ様に…」とは、至極もっともなことですし、少し言葉は悪くなりますが、「百姓は生かさず殺さず」と言った場合の真意もわかってきます。

 

【徳川家康「百姓は生かさず殺さず」の真意と真偽を読む】シリーズ

1 徳川家康「百姓は生かさず殺さず」の真意と真偽を読む

2 石田三成から徳川家康に引き継がれた意外なもの

3 伝本多正信著『本佐録』に見る江戸初期の税意識

4 徳川家康が実際に自分の領地でかけていた税率は?