外交
永年にわたる日ロ領土交渉。そのはじまりは、いつ、どこだったのか、その最前線で何が起きていたのか。原点を探っていくと、ウルップ島にたどり着きます。
田沼意次から松平定信へ。揺れる幕政とともに蝦夷地政策も二転三転した結果、いつしか「鎖国が国法」となって、幕末までの半世紀以上、幕府の対外政策の基本になっていきます。それを定めたのが、実は松平定信です。
1783年(天明3年)、ロシアの蝦夷地接近に対する危機感をあおる一方で、対ロ貿易の可能性を説いた『赤蝦夷風説考』が出版されます。これが時の老中、田沼意次の目にとまり、幕府が直接、蝦夷地調査に乗り出すことになります。その後の情勢次第では日ロ通商条…
江戸時代の初め、外国だった今の北海道(蝦夷地)。それが江戸中期になると、蝦夷地は新たな局面を迎えます。ロシアの極東進出です。今回はロシアの登場による幕府や松前藩の対応について見ていきましょう。
ロンドンで日本との40年の時差を知った岩倉使節団。この差を今後どう埋めていけばいいのか。『特命全権大使米欧回覧日記』は考察していきます。その答えもやはりロンドンにありました。
岩倉使節団はイギリスで高度な技術力に圧倒されながらも、その進歩はわずか40年前からだったことに勇気づけられます。日本の行く末を模索する『特命全権大使米欧回覧日記』を読み解きます。
明治4年(1871年)、岩倉使節団は鉄道で米大陸を横断、首都ワシントンにやってきます。ここで使節団は日米の国の基本構造=国体の違いを認識することになります。『特命全権大使米欧回覧日記』を読み解きます。
明治4年(1871年)、岩倉具視を正使とする新生日本の大使節団が組織され、世界を広く見聞して回りました。いわゆる「岩倉使節団」です。今回はその時の様子を伝える『特命全権大使米欧回覧日記』を読んでいきます。
1868年3月(慶応4年3月)、明治天皇は各国公使に謁見。英国公使ハリー・パークスとの謁見の様子は、随行していたアルジャーノン・ミットフォードが詳細に記録しています。今回は、この時の明治天皇の様子。
慶応4年3月、新政府の方針に基づいて明治天皇は英国公使ハリー・パークスと謁見。この時の京都御所や明治天皇の様子は、パークスに随行していた外交官アルジャーノン・ミットフォードによって詳細に記されています。その様子を見ていきましょう。
王政復古の大号令直後、新政府は国際法に基づく外交を行うことを宣言、天皇が各国公使に謁見することとなりました。しかし、英国公使ハリー・パークスは御所に向かう途中、志士に襲われます。最後の攘夷事件を、英国側から見ていきましょう。
1867年(慶応3年)4月、徳川慶喜は大阪城で諸外国公使と謁見しました。古式に則ったこの会見の様子を英国の外交官、アルジャーノン・ミットフォードは「東洋の最果ての国の昔の物語の中の一章」と記しています。
幕末の英外交官と言えば、アーネスト・サトウが有名ですが、もうひとり、アルジャーノン・ミットフォードもいます。彼の回顧録『英国公使館の見た幕末維新』を読みながら、「ミットフォードの幕末」へとタイムスリップしてみましょう。サトウとはひと味違っ…
幕末の英外交官、アーネスト・サトウは、最後の将軍、徳川慶喜には特別な感慨を持っていたようです。彼の回顧録『一外交官の見た明治維新』から、王政復古の大号令前後の徳川慶喜の姿を抜き出してみます。
幕末の英外交官、アーネスト・サトウによる『英国策論』出版後の各藩の反応。土佐藩では『英国策論』の議論をはるかに超えた考え方を持っていたことがわかります。大政奉還の2ヶ月ほど前のことでした。
幕末の英外交官、アーネスト・サトウによる『英国策論』出版後の各藩の反応について。今回は福井藩の反応を、サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』を読みながら、見ていきましょう。
幕末のクライマックスで『英国策論』を世に問い、一躍スター外交官となったアーネスト・サトウについて、『英国策論』出版後の各藩の反応を見ていきましょう。今回は宇和島藩と加賀藩です。
英国の外交官、アーネスト・サトウの名を一躍有名にした『英国策論』。幕末のクライマックスで出版されたこの本は、新政府のあるべき姿を示唆、政局に大きな影響を与えました。果たしてこれは英国の謀略だったのか-。
英国公使に就任したハリー・パークスの初仕事となったのが、条約勅許問題。四国艦隊下関砲撃事件の後、英国が間髪入れずにこの問題を取り上げてきた裏には、これまであまり語られてこなかったある重大な理由が隠されていました。
幕末当時を生きた人々の史料を読んでいると、下関戦争を契機として国内に倒幕思想が広まったことが伝わってきます。英国のスター外交官、アーネスト・サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』を読みながら、そのあたりの当時の空気感を感じていきましょう。
下関戦争の前後から、英国と長州藩の直接的な人的接触が始まります。相互に腹を割って話す中で、両者は幕府に対する不信感を共有するまでになり、これが倒幕へとつながっていきます。英国のスター外交官、アーネスト・サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新…
下関戦争の裏には、英国公使だったラザフォード・オールコックの果断とも言える行動がありました。ただ、この時のオールコックの決断は越権スレスレのきわどいものでもありました。幕末のスター外交官、アーネスト・サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』…
生麦事件以降、攘夷に対する英国の反撃が始まります。対薩摩藩戦となった「薩英戦争」、同じく対長州藩戦となった「下関戦争」です。ただ、英国から見ると、このふたつの戦争には、明らかな意味の違いがありました。このあたりを英国の外交官、アーネスト・サ…
アーネスト・サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』を読むシリーズ2回目。今回はサトウの来日直後に起きた「生麦事件」。事件直後、横浜の外国人社会は震撼、英仏など連合軍による即時報復論が起こります。一触即発の危機的な状況でした。
今回は幕末のスター外交官、アーネスト・サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』を読みながら、幕末も後半戦、激動の日本を見ていきましょう。
幕末の英国公使、ラザフォード・オールコックの記した『大君の都-幕末日本滞在記』を読むシリーズ最終回。東禅寺事件後、オールコックは幕府に最後通牒を突きつけます。その後の幕府の対応が重大な分かれ道となったのですが、実際に起きたのは生麦事件でした…
攘夷運動が高まり、外国人の殺害が続いていた幕末日本で、ついに英国公使館を直接襲撃するという東禅寺事件が起きます。ここで英国公使のオールコックは攘夷を放置し続ける幕府に愛想を尽かしてしまいます。
幕末の英国公使、ラザフォード・オールコックの記した『大君の都-幕末日本滞在記』を読むシリーズ5回目。米国公使館通訳のヘンリー・ヒュースケン殺害。彼の葬儀の日、オールコックはじめ外国代表たちを激怒させた某重大事件とは。
幕末の英国公使、ラザフォード・オールコックの記した『大君の都-幕末日本滞在記』を読むシリーズ2回目。今回はオールコックが、英国が攘夷の標的となっていることに対して、必要以上に被害妄想的になっていたその意外な理由についてです。
今回は、幕末にイギリスの初代駐日総領事(後に公使)として来日したラザフォード・オールコックの記した『大君の都-幕末日本滞在記』を読みながら、攘夷運動吹き荒れる幕末にタイムスリップしていきましょう。