江戸幕府
徳川家康は本当に「百姓は生かさず殺さず」と言ったのかを考えるシリーズ。最終回となる第4回目は、実際に家康が自分の領地でどれほどの税率をかけていたのかを見つつ、最終的な結論を導き出してみたいと思います。
徳川家康は本当に「百姓は生かさず殺さず」と言ったのかを考えるシリーズ。第3回目は、家康の側近中の側近、本多正信著と言われる『本佐録』の記述から、江戸時代初期における為政者の税についての基本認識について見ていきます。
徳川家康は本当に「百姓は生かさず殺さず」と言ったのかを考えるシリーズ。第2回目は、家康が最も活躍した豊臣政権下から江戸開府段階における標準的な年貢の税率はどれほどだったのか、見ていくことにします。
徳川家康の名言のひとつ「百姓は生かさず殺さず」。ただ、歴史好きの方の中には、これは家康自身の言葉ではない、と疑っている方も多いはず。今回のシリーズではこの言葉の真偽と真意について、探っていきたいと思います。
永年にわたる日ロ領土交渉。そのはじまりは、いつ、どこだったのか、その最前線で何が起きていたのか。原点を探っていくと、ウルップ島にたどり着きます。
田沼意次から松平定信へ。揺れる幕政とともに蝦夷地政策も二転三転した結果、いつしか「鎖国が国法」となって、幕末までの半世紀以上、幕府の対外政策の基本になっていきます。それを定めたのが、実は松平定信です。
北方からのロシア接近に対して、幕府はどのようにのぞんだか?。今回はまず、それを知る上で踏まえておきたい変革期にあった幕政の動向について、当時の老中、田沼意次から見ていきましょう。
1783年(天明3年)、ロシアの蝦夷地接近に対する危機感をあおる一方で、対ロ貿易の可能性を説いた『赤蝦夷風説考』が出版されます。これが時の老中、田沼意次の目にとまり、幕府が直接、蝦夷地調査に乗り出すことになります。その後の情勢次第では日ロ通商条…
江戸時代の初め、外国だった今の北海道(蝦夷地)。それが江戸中期になると、蝦夷地は新たな局面を迎えます。ロシアの極東進出です。今回はロシアの登場による幕府や松前藩の対応について見ていきましょう。
江戸時代、米が獲れなかった蝦夷地にあった松前藩から日本のかたちを考えます。今回は、外国と考えられていた当時の蝦夷地(今の北海道)が、ひょんなことから、次第に日本に組み込まれていく過程を見ていくことにします。
江戸時代、三百諸侯と言われたあまたの大名家の中でも、蝦夷地にあった松前藩ほど特殊な藩はなかったと言えるでしょう。理由は明確。石高(米の収穫高)が基本の幕藩体制にあって、松前藩では米が獲れなかったからです。今回のシリーズでは『松前藩』(濱口…