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徳川家康が実際に自分の領地でかけていた税率は?

 徳川家康は本当に「百姓は生かさず殺さず」と言ったのかを考えるシリーズ。最終回となる第4回目は、実際に家康が自分の領地でどれほどの税率をかけていたのかを見つつ、その発言の真偽と真意について最終的な結論を導き出してみたいと思います。

 

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家康は自らの領国、駿河でどれほどの税率をかけていたのか?

 

 中世から近世にかけての農村史を専門とする中村吉治・東北大学名誉教授は『近世初期農政史研究』(岩波書店刊、1970年発行)の中で、徳川家康が慶長4年(1599年)、駿河国一帯に出した農政に関する5カ条の法度を紹介しています。その中、富士郡杉田之村(現富士宮市杉田地区か?)宛ての文書には以下のようにあります。

 

 【AMAZONリンク】『近世初期農政史研究』 (岩波書店刊,1970年発行) 

 

当所免合之儀、今度御検地帳面を以、毛付ニ五ツ半可出候、若大日損大風雨ニテ、作毛以外相違之年ハ、所々領主と立合検見ヲ請、石詰三分一ハ百姓可取事

 

  ここでは検地帳を基礎として、年貢の免合(税率)を55%と定めつつも、不作の年は領主と相談の上、3分の1は百姓が取っていい(税率66%)と定めています。不作の年の方が税率が高いというのは、どんなに不作でも実収値の最低33%は百姓側が取っていいということなのでしょう。

 

 さらに、家康は同様の文書を近隣の村ごとにも出していますが、それぞれに税率は異なり、「七ツ」(税率70%)、あるいは「六ツ」(同60%)と示されています。

 

 ここからわかることは、往々にして高い税率をかけているのですが、地域ごとの田畑の良し悪しを考慮して、細かく税率を変えているということです。まさに「百姓は生かさず殺さず」を細かく実践していたと言えるでしょう。

 

 前回、伝本多正信著『本佐録』に見る江戸初期の税意識で見たように、「年貢は農村を維持していくだけの必要最低限な米だけを残して、それ以上をすべて徴収する」という考え方がベースにあった上で、では、その必要最低限がどれくらいなのかについては、地域ごと、年ごとの作況を見て定めていくというのが、当時の年貢のあり方だったのです。

 

 と、ここまで見た上で、今回のシリーズのテーマ、家康は本当に「百姓は生かさず殺さず」と言ったのかについて、最終的な結論を導き出してみましょう。

 

 まず、実際に言ったのかどうかと言われれば、第1回の徳川家康「百姓は生かさず殺さず」の審議と真意を読むでご紹介した通りで、「後世の伝聞に基づく話なので、100%の確証はないものの、否定もできない」と言えます。

 

 ただ、そう言ったとしても全く不思議ではないほど、実際に家康は農村に高い税率を課していたし、地域ごと、年ごとに細かく税率を調整して、まさに「百姓は生かさず殺さず」農村から最大限の年貢を徴収していた、というのが今回のテーマの結論になります。

 

 さらにこれは、当時の為政者(戦国大名)の間では常識的な考え方で、厳しい戦国時代を勝ち抜くには、領民にもギリギリの負担を強いていたとみることができます。

 

 後世、華々しい合戦の話ばかりにどうしても目が行ってしまいがちですが、その戦費を負担していたのが誰だったのかについて、我々は忘れてはいけないでしょう。

 

 

【徳川家康「百姓は生かさず殺さず」の真意と真偽を読む】シリーズ

1 徳川家康「百姓は生かさず殺さず」の真意と真偽を読む

2 石田三成から徳川家康に引き継がれた意外なもの

3 伝本多正信著『本佐録』に見る江戸初期の税意識

4 徳川家康が実際に自分の領地でかけていた税率とは? 

 

 

 

伝本多正信著『本佐録』に見る江戸初期の税意識

 徳川家康は本当に「百姓は生かさず殺さず」と言ったのかを考えるシリーズ。第3回目は、家康の側近中の側近、本多正信著と言われる『本佐録』の記述から、江戸時代初期における為政者の税についての基本認識について見ていきます。

 

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本多正信の著と伝えられる『本佐録』からは、当時の為政者の政治認識を読み取ることができる

 

 本多正信は、家康とは5歳ほど年上の天文7年(1538年)生まれ。家康の天下取りから幕政の基盤固めを主に内政面から支えました。その正信の著とされているのが、『本佐録』です。

 

 本佐録-国立国会図書館デジタルコレクション

 本佐録(『日本経済業書』巻1収録分)-国立国会図書館デジタルコレクション

 

 『本佐録』はもともと、2代将軍徳川秀忠が正信に「天下国家の盛衰、人君の存亡万民の苦楽、いかなるところより起こるぞ」と諮問、それに答えたものと言われています。そのため、「天下国家を治むる御心持の次第」とのサブタイトルがあって、具体的には7項目から成り立っています。

 

 ただし、本佐録は正信の著作ではないという疑念が昔から歴史界にはくすぶっています。ですがここでは、少なくとも江戸時代の前期、それなりの人物によって書かれたであろう政治指南書として、その内容に着目していきたいと思います。

 

 さて、この中の1項目に「百姓仕置の事」とあり、その冒頭、以下の記述が見られます。

 

百姓は天下の根本也、是を治る法有、先一人一人の田地の境目を能立て、籾一年の入用作食をつもらせ、其餘を年貢に収べし

 

 そしてこれに続くのが、

 

百姓は財の餘らぬ様に不足なき様に、治る事道なり

 

 です。とくに後半部分は、家康が言ったとされる「百姓は生かさず殺さず」に通じるところがあります。

 

 さらに注目すべきは、前半部分で、この時代の税に関する基本的な考え方が示されていることです。

 

 この部分を現代語訳すると、「まず土地の争いがないようひとりひとりの田畑の境界を明確にして、食用に次年度の種籾を加えた1年分の必要な米の量を計算し、その余りを年貢とすべし」ということです。つまり、「農村を維持していくだけの必要最低限の米を残して、それ以上はすべて年貢として徴収する」というのが、当時の年貢に対する基本的な考え方だったようです。

 

 これを裏付ける証拠として、当時の年貢の税率を「免合」と言っていたことがあげられます。たとえば、「免四ツ」と言えば、税率40%という意味です。

 

 なぜ税率のことを免合と言うのか、はじめは疑問に思ったのですが、当時の年貢に対する考え方がわかるにつれ、段々とその意味が理解できるようになりました。

 

 すなわち、免合の免は「免じる」ということです。特定の田畑から生産された米のうち、農村を維持していくための分を差し引く(=免じる)という考え方がベースにあったとすれば、話が見えてきます。

 

 ここからはあくまで私の個人的な推測ですが、本来的には農家側の取り分を意味していた免合が、5公5民(税率50%)が一般的だった時代にどっちがどうだか現場で混同されて、いつしか領主側の取り分(税率)を意味するように転用されていったと考えれば、つじつまは合います。

 

 こうした社会常識が当時の為政者の間にあったとすれば、「百姓は財の餘らぬ様に…」とは、至極もっともなことですし、少し言葉は悪くなりますが、「百姓は生かさず殺さず」と言った場合の真意もわかってきます。

 

【徳川家康「百姓は生かさず殺さず」の真意と真偽を読む】シリーズ

1 徳川家康「百姓は生かさず殺さず」の真意と真偽を読む

2 石田三成から徳川家康に引き継がれた意外なもの

3 伝本多正信著『本佐録』に見る江戸初期の税意識

4 徳川家康が実際に自分の領地でかけていた税率は? 

 

石田三成から徳川家康が引き継いだ意外なもの

 徳川家康は本当に「百姓は生かさず殺さず」と言ったのかを考えるシリーズ。第2回目は、家康が最も活躍した豊臣政権下から江戸開府段階における標準的な年貢の税率はどれほどだったのか、見ていくことにします。

 

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三成と家康。敵対したふたりだったが、引き継がれたものもあった

 

 豊臣秀吉が天下人となり、全国の諸大名に号令できるようになって、太閤検地が始まります。検地自体はそれ以前からも、大名が独自の裁量によりその領地内で行っていたケースが見られますが、太閤検地は全国レベルで、しかも統一の尺度で行われた点で画期的と言えます。

 

 と同時に、各地でバラバラだった年貢の税率にも、一応のスタンダードができていきます。

 

 文禄4年(1595年)には徳川家康を含む5大老連署により、年貢の税率の基準が示されています。それによると、税率は3分の2、つまり66%でした。当時の言い方では、2公1民ということになります。(ただし、作柄の豊凶により、地域ごとで減免措置が講じられました)

 

 これは「天下領」すなわち豊臣家の直轄領を対象としたものでしたが、全国の諸大名もこれを基準として自らの領地に適用していったようです。

 

 現在の所得税は、年収500万前後で税率20%程度。これに消費税として別に10%負担する分を加えても合計30%。比べてみれば、当時の年貢がいかに高率だったかおわかりいただけるでしょう。全国の諸大名こぞって「百姓は生かさず殺さず」政策を採っていたわけです。

 

  実は戦国時代を通じてみると、5公5民(税率50%)が標準的だったようです。豊臣政権は、異例とも言えるほどの高税をかけていたわけで、これは裏を返せば、相次ぐ大規模遠征に伴う戦費調達に四苦八苦していたのではと推測されます。

 

 これまで豊臣政権は多くの領地と全国の金山・銀山、主要港を押さえて、財政的には豊かだとされてきました。ただ、収入はあっても、一方で出費がかさめば、収支バランスは合いません。

 

 考えて見てください。大阪城築城に加えて、九州征伐、小田原征伐、朝鮮侵略(文禄・慶長の役)と、長期に、しかも大規模に兵員を動かすとすれば、それだけ金と兵糧がかかります。その負担を誰がしていたのか、後世の我々は思いを巡らす必要があるでしょう。

 

 江戸時代の初め、寛永2年(1625年)頃に書かれた秀吉の一代記『太閤記』の著者である小瀬甫庵は、その冒頭で秀吉を厳しく批判しています。秀吉はよく金銀を大名にばらまいたが、これは人の道にかなったことか、との問いに対する答えという形式で、それが示されています。

 

是は富るをつぎ、貧きをば削る意味也。何道に近かるべけんや。百姓を辛くしぼり取、金銀の分銅にし、一往目を悦ばしめ、余るを以て諸侯大夫に施し給ひしは、恵下給ふに非ず。

 

 【AMAZONリンク】『太閤記』 (新人物往来社刊、1971年発行)

 

 現代語訳すれば、「これは富む者をさらに富ませ、貧しき者を苦しめるという意味であり、人の道からは外れた行いだ。百姓に高い税を課して金銀の分銅にして、諸大名たちに分け与えたのであって、下の者には全く恩恵がない」という意味です。

 

 これから秀吉の一代記を始めようとする冒頭から、異例中の異例と言える厳しい批判。甫庵が太閤記を書いていた頃には、それだけ、秀吉時代の重税感がまだ社会に残っていたのでしょう。

 

 こうした豊臣政権の増税政策を担当する責任者が石田三成だったと見れば、ご本人の個人的な人柄は別にして、世論上、三成がいかに不人気だったか、推して知るべしです。重い年貢負担に悩まされた農民の間だけでなく、「軍役」という税を負担した諸大名の中でも「三成憎し」の世論が広がるというのも、当然の話でしょう。

 

 現代でも増税を推進する政治家や政党は、間違いなくその支持率を落とします。秀吉の死後、支持率を落とした豊臣政権が徳川に取って代わられたというのも、現代の政治に通じる話なのかもしれません。

 

 ただ、政権が豊臣から徳川に移動したといっても、当初の税率は豊臣政権時のまま踏襲されます。ここから8代将軍吉宗の時代にかけて、長期的には減税局面を迎えるわけですが、少なくとも家康の時代には「百姓は生かさず殺さず」政策が温存されていたわけです。 

 

【徳川家康「百姓は生かさず殺さず」の真意と真偽を読む】シリーズ

1 徳川家康「百姓は生かさず殺さず」の真意と真偽を読む

2 石田三成から徳川家康に引き継がれた意外なもの

3 伝本多正信著『本佐録』に見る江戸初期の税意識

4 徳川家康が実際に自分の領地でかけていた税率は? 

 

 

 

 

徳川家康「百姓は生かさず殺さず」の真偽と真意を読む

 徳川家康が遺したと言われる名言のひとつに「百姓は生かさず殺さず」があります。ただ、歴史好きの方の中には、これは家康自身の言葉ではないかも、と疑っている方も多いはずです。

 

 では、これが全くのウソかと言うと、実はそうとも言い切れません。この言葉は後世、よく誤解されるのですが、当時の税(年貢)のあり方、考え方を知れば、なるほどと思える話なのです。今回のシリーズではこの言葉の真偽と真意について、探っていきたいと思います。

 

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家康は「百姓は生かさず殺さず」と本当に言ったのか?

 

 この言葉が家康の遺したものだと後世伝えられる根拠となった有力な史料として、『落穂集』があります。北条氏の重臣、大道寺政繁のひ孫に当たる大道寺友山が、享保12年(1727年)頃に著したもので、家康の関東入府の頃からの事績が書かれています。

 

 【AMAZONリンク】落穂集 (1967年) (江戸史料叢書)

 

 ただし、友山自身は寛永16年(1639年)の生まれなので、ちょうど島原の乱の直後、3代将軍家光の時代以降を生きた人物です。家康に直接近侍したわけではなく、あくまで伝聞という形で、ありし日の家康に関する事績を紹介しています。

 

 この中に「秋先に至り収納の事」と題した一節があり、2代将軍秀忠と3代将軍家光の側近で長らく老中職にあった土井利勝が、領内を視察した上で、その家臣(古賀藩)たちに年貢徴収のあり方について触れた訓示を紹介しています。

 

 ここで利勝は家康の時代の年貢徴収法と比較して、近年、そのやり仕方が甘くなっているのではないかと指摘した上で、「権現様流」(家康流)という年貢徴収の心得を紹介しています。

 

 これによると、家康は天領での年貢徴収(当時の言葉では「収納」)を担当する各地の代官が秋になって任地へ赴く際には、直接会ってこう指示したそうです。すなわち、

 

郷村の百姓共は死なぬ様生きぬ様にと合点致して収納申付候

 

 つまり、家康→利勝→家臣→友山という3段階の伝承によって、家康が「百姓は生かさず殺さず」と言ったと伝わっていることになります。

 

 元亀4年(1573年)生まれの土井利勝が自ら書き残した話であれば、その若かりし頃には家康に直接接していたので、信憑性は高いのですが、その後、1世紀ほど時代が下り、2段階の伝承を経ているので、その分はかなり差し引かねばならないでしょう。完全に否定もできなければ、積極的に肯定もできない、ちょっとモヤモヤした話ということになります。

 

  じゃあ、本当のところはどうなんだとなると、当時の年貢に対する基本的な考え方、そして家康がその領地において実際にどれほどの税率をかけていたか検証していく必要があります。次回はそのあたりを見ていきます。

 

【徳川家康「百姓は生かさず殺さず」の真意と真偽を読む】シリーズ

1 徳川家康「百姓は生かさず殺さず」の真意と真偽を読む

2 石田三成から徳川家康が引き継いだ意外なもの

3 伝本多正信著『本佐録』に見る江戸初期の税意識 

4 徳川家康が実際に自分の領地でかけていた税率は?

 

 

日ロ領土問題の原点はウルップ島にあり

 江戸時代に徳川幕府が直面した開国に関する外交問題は、幕末のペリー来航がはじめではなく、江戸中期、蝦夷地を巡るロシアとの通商交渉に始まり、しかも主権があいまいだった蝦夷地から千島列島、樺太を巡る領土問題に発展したということは、今回のシリーズ【江戸時代の幕府外交ー「松前藩と蝦夷地」】でこれまで見てきた通りです。

 

 最終回となる今回は具体的に、日ロの領土問題のはじまりが、いつ、どこだったのか、その最前線で何が起きていたのか、明らかにしていくことにします。

 

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エトロフ島の対岸に位置するウルップ島。ここで日ロが最初に遭遇した(国土地理院地図より作成)

 

 幕府は田沼意次の時代、北方へのロシア接近の報を受け、自ら蝦夷地調査隊を派遣します。天明5年(1785年)から6年にかけてのことでした。ただ、調査隊が江戸に戻った頃には田沼意次が失脚、蝦夷地開発に消極的だった松平定信が政権を獲ったことで、蝦夷地問題は一時、棚上げとなります。

 

 このため、正式な調査報告書が提出されることはなかったのですが、調査隊の一員、佐藤玄六郎による非公式レポートが『蝦夷拾遺』として遺っています。※以下、引用は『赤蝦夷風説考』(工藤平助著、井上隆明現代語訳、教育社新書、1979年発行)に所収のものより。

 

 

 それによると、最初の日ロの遭遇、と言っても、正確にはアイヌ(蝦夷)とロシア(赤人)との出会いになるのですが、ウルップ島だったと記されています。ウルップ島とは、北方4島で最も北東にあるエトロフ島の先にある島です(地図参照)。

 

  わたしども探検隊が蝦夷地調査の旅さきに、蝦夷に直接聞いた話では、赤人の国号はオロシャ、都をムスクバ、一部をオホッコイということである。また赤人はつねにウルップ島に来ては、ラッコの捕獲をしている。蝦夷のほうでもラッコ狩りのため、その島に行っている。両者は島で行き交い、わずかな品を交易している、とも語っていた。

 

 ウルップ島はもともとラッコの生息地で、その毛皮を得るため、アイヌもロシア人も海を渡って猟に来ていたところ、偶然、遭遇したのがはじまりということになります。

 

  次に幕府の調査チームは、それはいつの頃からか、とアイヌに問いかけます。その答えが、次のようになります。

 

 十五、六年前になろうか、蝦夷がウルップに出かけてラッコ狩りをしているとき、赤人が一艘に八十余人乗ってやってきた。かれらは、鉄砲を打ち蝦夷を驚かせて猟地を横領した。そのうえ捕獲したラッコまでも横取りしてしまった。小勢の蝦夷は防ぎようもなく逃げ帰った

 

  翌年赤人に復讐しようと決め、クナシリ、エトロウ両島の酋師らが皆を集めて、蝦夷船五十余艘に分乗、ウルップ島で赤人を待った。赤人はやってきた。こんどは百余人が一艘に乗って上陸、ただちに蝦夷たちはかれらを囲み討った。即死者十余人、あとは逃走していった。赤人の鉄砲で、蝦夷側も死者四、五人だった。

 

 こうした小競り合いの後、両者は和睦。交易をするようになったというわけです。年代的には調査隊に先立つこと、15年ほど前ということですから、1770年頃。世界的には英国のジェームズ・クックが太平洋を航海して、ハワイやオーストラリアを発見していた時期で、欧州諸国間で太平洋が脚光を浴び始めた頃と言えるでしょう。

 

 そのような時代の中で、ロシアも北太平洋で千島列島を南下してきたということになります。日本では田沼時代の真っ只中の出来事でした。

 

 その後日本では、松平定信の時代になって、国防上の懸念から比較的穏健な対ロ政策を採っていたのですが(このあたりについては、蝦夷地問題の変転、やがて「鎖国が国法」に、参照)、やがてウルップ島にロシア人が定住を始めたり、1806年から7年にかけてカラフトやエトロフ島がロシア艦船から攻撃を受けたことで、国内に強硬論が台頭。1807年(文化4年)に幕府は、松前藩を東北に転封した上で蝦夷地全域を直轄地とし、東北の最有力藩、仙台(伊達)藩をエトロフ島とクナシリ島の警備に当たらせています。(カラフトには、やはり東北雄藩の会津藩を配置)

 

 つまり、いち早くロシア人が定住を始めたウルップ島はあきらめ、その対岸にあるエトロフ島が日本の防衛最前線になったということです。現在も北方4島の帰属を巡って日ロ間は領土問題を抱えていますが、昔からこのあたりで国境を巡る争いが行われていたんですね。

 

 ただ、蝦夷地政策はその後も二転三転し、松前藩が旧領に戻ってきたり、幕領が東北諸藩に分割統治されたり、再度幕領化されたりと定まらず。その間、徳川斉昭や坂本龍馬など多くの知識人が蝦夷地のあり方について意見を述べていますが、結局は明治2年(1869年)に北海道と改名され、完全に日本領となるまで決定打とはなりませんでした。(江戸のはじめ異国扱いだった蝦夷地は、このような形で270年の月日をかけて正式に日本になりました)

 

 とはいえ、蝦夷地と対ロ問題は江戸中期以降、ずっとくすぶり続けた国の重要課題であったことは間違いありません。日本は江戸時代、鎖国をしていたからといって、決して外交問題がなかったわけではありません。ペリーが来航してはじめて「太平の眠りを覚ます…」というのは、あくまで庶民レベルの話であって、幕府上層部や識者の間では外交問題がかなり前から意識されてきたと日本史の見方を改めた方がいいようです。それを気づかせてくれた蝦夷地の歴史でした。

 

 

【江戸時代の幕府外交-「松前藩と蝦夷地」シリーズ】

米の獲れない『松前藩』から日本とは何かを考える

型破りな『松前藩』の扱いに困っていた?江戸幕府

江戸中期、密かに始まった通商交渉

『赤蝦夷風説考』蝦夷地に迫る大国ロシアの影が公に

田沼意次はなぜ「賄賂政治家」になったのか

蝦夷地問題の変転、やがて「鎖国が国法」に 

日ロ領土問題の原点はウルップ島にあり 

以上