グッと身近に来る日本史

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日ロ領土問題の原点はウルップ島にあり

 江戸時代に徳川幕府が直面した開国に関する外交問題は、幕末のペリー来航がはじめではなく、江戸中期、蝦夷地を巡るロシアとの通商交渉に始まり、しかも主権があいまいだった蝦夷地から千島列島、樺太を巡る領土問題に発展したということは、今回のシリーズ【江戸時代の幕府外交ー「松前藩と蝦夷地」】でこれまで見てきた通りです。

 

 最終回となる今回は具体的に、日ロの領土問題のはじまりが、いつ、どこだったのか、その最前線で何が起きていたのか、明らかにしていくことにします。

 

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エトロフ島の対岸に位置するウルップ島。ここで日ロが最初に遭遇した(国土地理院地図より作成)

 

 幕府は田沼意次の時代、北方へのロシア接近の報を受け、自ら蝦夷地調査隊を派遣します。天明5年(1785年)から6年にかけてのことでした。ただ、調査隊が江戸に戻った頃には田沼意次が失脚、蝦夷地開発に消極的だった松平定信が政権を獲ったことで、蝦夷地問題は一時、棚上げとなります。

 

 このため、正式な調査報告書が提出されることはなかったのですが、調査隊の一員、佐藤玄六郎による非公式レポートが『蝦夷拾遺』として遺っています。※以下、引用は『赤蝦夷風説考』(工藤平助著、井上隆明現代語訳、教育社新書、1979年発行)に所収のものより。

 

 

 それによると、最初の日ロの遭遇、と言っても、正確にはアイヌ(蝦夷)とロシア(赤人)との出会いになるのですが、ウルップ島だったと記されています。ウルップ島とは、北方4島で最も北東にあるエトロフ島の先にある島です(地図参照)。

 

  わたしども探検隊が蝦夷地調査の旅さきに、蝦夷に直接聞いた話では、赤人の国号はオロシャ、都をムスクバ、一部をオホッコイということである。また赤人はつねにウルップ島に来ては、ラッコの捕獲をしている。蝦夷のほうでもラッコ狩りのため、その島に行っている。両者は島で行き交い、わずかな品を交易している、とも語っていた。

 

 ウルップ島はもともとラッコの生息地で、その毛皮を得るため、アイヌもロシア人も海を渡って猟に来ていたところ、偶然、遭遇したのがはじまりということになります。

 

  次に幕府の調査チームは、それはいつの頃からか、とアイヌに問いかけます。その答えが、次のようになります。

 

 十五、六年前になろうか、蝦夷がウルップに出かけてラッコ狩りをしているとき、赤人が一艘に八十余人乗ってやってきた。かれらは、鉄砲を打ち蝦夷を驚かせて猟地を横領した。そのうえ捕獲したラッコまでも横取りしてしまった。小勢の蝦夷は防ぎようもなく逃げ帰った

 

  翌年赤人に復讐しようと決め、クナシリ、エトロウ両島の酋師らが皆を集めて、蝦夷船五十余艘に分乗、ウルップ島で赤人を待った。赤人はやってきた。こんどは百余人が一艘に乗って上陸、ただちに蝦夷たちはかれらを囲み討った。即死者十余人、あとは逃走していった。赤人の鉄砲で、蝦夷側も死者四、五人だった。

 

 こうした小競り合いの後、両者は和睦。交易をするようになったというわけです。年代的には調査隊に先立つこと、15年ほど前ということですから、1770年頃。世界的には英国のジェームズ・クックが太平洋を航海して、ハワイやオーストラリアを発見していた時期で、欧州諸国間で太平洋が脚光を浴び始めた頃と言えるでしょう。

 

 そのような時代の中で、ロシアも北太平洋で千島列島を南下してきたということになります。日本では田沼時代の真っ只中の出来事でした。

 

 その後日本では、松平定信の時代になって、国防上の懸念から比較的穏健な対ロ政策を採っていたのですが(このあたりについては、蝦夷地問題の変転、やがて「鎖国が国法」に、参照)、やがてウルップ島にロシア人が定住を始めたり、1806年から7年にかけてカラフトやエトロフ島がロシア艦船から攻撃を受けたことで、国内に強硬論が台頭。1807年(文化4年)に幕府は、松前藩を東北に転封した上で蝦夷地全域を直轄地とし、東北の最有力藩、仙台(伊達)藩をエトロフ島とクナシリ島の警備に当たらせています。(カラフトには、やはり東北雄藩の会津藩を配置)

 

 つまり、いち早くロシア人が定住を始めたウルップ島はあきらめ、その対岸にあるエトロフ島が日本の防衛最前線になったということです。現在も北方4島の帰属を巡って日ロ間は領土問題を抱えていますが、昔からこのあたりで国境を巡る争いが行われていたんですね。

 

 ただ、蝦夷地政策はその後も二転三転し、松前藩が旧領に戻ってきたり、幕領が東北諸藩に分割統治されたり、再度幕領化されたりと定まらず。その間、徳川斉昭や坂本龍馬など多くの知識人が蝦夷地のあり方について意見を述べていますが、結局は明治2年(1869年)に北海道と改名され、完全に日本領となるまで決定打とはなりませんでした。(江戸のはじめ異国扱いだった蝦夷地は、このような形で270年の月日をかけて正式に日本になりました)

 

 とはいえ、蝦夷地と対ロ問題は江戸中期以降、ずっとくすぶり続けた国の重要課題であったことは間違いありません。日本は江戸時代、鎖国をしていたからといって、決して外交問題がなかったわけではありません。ペリーが来航してはじめて「太平の眠りを覚ます…」というのは、あくまで庶民レベルの話であって、幕府上層部や識者の間では外交問題がかなり前から意識されてきたと日本史の見方を改めた方がいいようです。それを気づかせてくれた蝦夷地の歴史でした。

 

 

【江戸時代の幕府外交-「松前藩と蝦夷地」シリーズ】

米の獲れない『松前藩』から日本とは何かを考える

型破りな『松前藩』の扱いに困っていた?江戸幕府

江戸中期、密かに始まった通商交渉

『赤蝦夷風説考』蝦夷地に迫る大国ロシアの影が公に

田沼意次はなぜ「賄賂政治家」になったのか

蝦夷地問題の変転、やがて「鎖国が国法」に 

日ロ領土問題の原点はウルップ島にあり 

以上