グッと身近に来る日本史

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「鎖国」も消えた平成の歴史教科書

 「士農工商」とともに「鎖国」の2文字も平成の歴史教科書からは消えました。昭和の時代に教育を受けた者からすれば、本当に江戸時代は激変してしまいました。

 

 「鎖国」とは、キリスト教の布教や人の出入国の禁止、貿易についても長崎においてオランダと中国との間でのみ許されていたなど、江戸幕府による諸外国間との閉鎖的政策全般のことを指します。

 

 この言葉についても、『こんなに変わった歴史教科書』の中で触れられています。

 

 

  江戸時代の日本は、長崎のほかにも、対馬、薩摩、松前の各藩を海外交渉の窓口としていた。これらの窓口を「4つの口」と呼び、対馬は朝鮮と、薩摩は琉球と、松前はアイヌ民族との外交を、幕府に奉仕する「役」として負担するかわりに、独占的な交易の権利を得ていたことが、近年の研究で指摘されている。

 

 私も自らのファミリーヒストリーを調べていく中で、「鎖国」というのは少し言い過ぎではないか、と思っていました。私の先祖の中には、東北の人間ですが、長崎を経由して中国との貿易を行い、多くの富を得た人間もいたからです。

 

 調べれば、他の地域でも、海外貿易で巨万の富を得た商人の例が見られるので、「鎖国」と言うほどの「鎖国」ではなかったような気がしたのです。

 

 もちろん、「鎖国」と説明されていた当時から、長崎経由で中国やオランダとは貿易ができたことは補足説明としては受けていたので、それで正しいじゃないかと言えばその通りなのですが、「鎖国」という言葉があまりにも強いので、なんでもかんでも海外とのつながりがシャットアウトされていたような誤解が生じる危険があるように思います。

 

 たとえば、情報です。「鎖国」であれば当然、海外の情報は幕府が完全にシャットアウトしていたようなイメージがありますが、これが案外、違っていました。

 

 黒船来航のペリー艦隊による公式報告書と言える『ペリー提督日本遠征記』(宮崎壽子監訳、角川ソフィア文庫、2014年)には次のような記述があります。

 

 アメリカ人が交流の機会を得た日本の上流階級の人々は、自国の事情に精通しているばかりでなく、諸外国の地理、物質的進歩、近代の歴史についてもいくらか知っていた。日本人はよく質問したが、この国の孤立した状態を考えると、彼らの情報はじつに驚くべきものであった。

 

 このため米国側が、なぜそのように海外の事情を詳しいのか、聞いたところ、

  長崎のオランダ人を通じてヨーロッパから文学、科学、芸術、政治についての定期刊行物を毎年受け取っており、その一部は翻訳されて刊行され、帝国中に頒布される

 

といった答えが返ってきたそうです。

 

 オランダ人からの定期刊行物とはいわゆる「風説書」のことかと思いますが、幕閣の中枢にいる人物だけの機密事項扱いだったかと言えば、必ずしもそうではなく、印刷されてかなり多くの人の目に触れていたということになります。

 

  実際、ワシントンやナポレオンについても当時の日本人(もちろん知識階級に限った話でしょうが)は知っていたと言われます。

 

 こうした話もあるので、江戸時代の幕府外交が閉鎖的なスタンスをとっていたとはいえ、「鎖国」というほどでもなかったと考えた方が間違いがないように思います。