グッと身近に来る日本史

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歴史教科書から消えた「士農工商」

 私がファミリーヒストリーを調べていて、とくに教科書と現実とのギャップを感じたのが、江戸時代の「士農工商」についてでした。

 

 「士農工商」とは昭和の歴史教科書では非常にポピュラーな用語で、武士階級をトップとして農、工、商の順に上下関係を表す、江戸時代の厳格な身分制度のことを指します(厳密に言えば、「指していました」)。

 

 この言葉には上下関係とともに、職業の移動の禁止あるいは制限といったニュアンスも含まれていました。つまり、武家に生まれれば武士に、商家に生まれれば商人にしかなれなかったということです。

 

 

  少なくとも昭和の時代に「士農工商」と言えば、「名字帯刀」とともに江戸時代の社会を言い表す代表的な言葉でした。今の中年以上の方が「江戸時代と言えば?」と問われれば、かなりの方が「士農工商」と答えるはずです。

 

 それほど有名だった言葉が、平成の歴史教科書からはストンと落ちて(消えて)しまいました。これについて『こんなに変わった歴史教科書』では、その理由を次のように解説しています。

 

「士農工商」が上下関係を表すようになったのは、江戸時代後期、儒学者のイデオロギー的な言説から派生したもので、本来の語意から大きく乖離している。むろんこの見解は当時大勢を占めてはいなかったが、明治期以降、「士農工商」は上下関係を表すものという解釈が確定すると、教科書を通じて一般に普及していった。このように「士農工商」の概念は、近代につくられたものだったのである。

 

  私自身、江戸時代の先祖や親交のあった近い家について調べたところ、公権力を握っていた武士階級が大きな顔をしていたことは確かなようですが、そんなに厳格な制度でもなかったのではないかというのが実感でした。武士から商人へ、あるいはその逆へという事例が、結構、見られたのです。

 

 一例をあげれば、明治時代に『武士道』を英文で著し、5000円札の肖像にもかつてなった新渡戸稲造の祖父に当たる新渡戸伝(つとう)がいます。

 

 伝はもともと盛岡藩の地方代官所に所属する御給人(全国的には郷士のような身分)の家に生まれましたが、父親が罪に問われて家禄没収となりました。

 

 生きていくためには稼がねばなりません。そこで伝は、名を安野屋素六に改めて材木商となり、商人として成功します。

 

 すると今度は、伝の商才を見た藩が勘定奉行として呼び戻します。当時の藩は財政難で、収入をいかに増やすかに腐心していたのですが(現代で言えば、県庁が産業振興に力を入れるようなものです)、もともとの武士階級の中から商才ある人物を探すのは困難で、伝の他にも有能な商人を登用していたのです。

 

 こうした事実を知ると、職業の移動は今ほど自由ではなかったものの、決してなかったわけではないということがわかります。

 

 最後に、これに関して、幕末に日米修好通商条約交渉に当たった米駐日総領事のタウンゼント・ハリスの日記(『ハリス日本滞在記』=坂田精一訳、岩波文庫刊、1953年)に残る興味深い記述をご紹介しましょう。

 

  一般原則としては、日本人は父親の職業にしたがうことを強制されていないので、自分の好む職業に就いてもよいのだが、しかし概して父業をついでいる。

 

 外国人の見方ながら、私はこれが案外、的を得た認識であるように思います。