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蝦夷地問題の変転、やがて「鎖国が国法」に

 田沼意次から松平定信へ。揺れる幕政とともに蝦夷地政策も二転三転した結果、いつしか「鎖国が国法」となって、幕末までの半世紀以上、幕府の対外政策の基本になっていきます。それを定めたのが、実は松平定信です。今回は松平定信の蝦夷地政策を見ていきましょう。

 

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寛政の改革を進めた松平定信。ロシアとの外交問題に直面し、「鎖国を国法」とした

 

 1778年に行われた、松前藩とロシアのイルクーツク政府が派遣したシャバーリンとの通商交渉については、以前、このブログでご紹介しました。(江戸中期、密かに始まった通商交渉)

 

 その際は、松前藩が「長崎で幕府と交渉してくれ」と拒絶。一端、話は立ち消えとなったのですが、それならばということで、ロシアは策を講じてきます。

 

 1792年(寛政4年)、今度は時のロシア皇帝、エカテリーナ2世の命を受けたアダム・ラスクマンが根室沖に来航します。前回はいわば地方政府レベルの交渉でしたが、今回は体裁を整えて国家レベルの交渉を要求、しかも、日本人漂流民、大黒屋光太夫を伴い、その送還といった口実までありました。

 

 これには、最初にラスクマンと応対した松前藩もすぐに幕府に通報、幕政レベルでの決断を迫られることになりました。この時、幕政を主導していたのが、田沼意次の失脚後、これに代わった松平定信です。

 

 田沼意次は蝦夷地について、ロシアとの通商開始とともに、積極的に振興して(そこから税を徴収して)、幕府財政の立て直しを図るといったところまで考えていたようですが、松平定信には通商や地域振興といった発想はなく、ただ国防の観点からのみ蝦夷地問題を考えていた点で、両者は大きく異なります。

 

 松平定信は政界引退後に記されたその回顧録『宇下人言(うげのひとごと)』の中で、蝦夷地問題についての幕閣内での議論の様子をこう伝えています。以下の引用は『日本人の自伝 別巻Ⅰ』(1982年、平凡社発行)より。 

 

蝦夷ちょう国は、いといとう広ければ、世々の人「米穀など植えてその国をひらくべし」などいうもの殊に多かりけれど、天のその地を開き給わざるこそ有り難けれ。「いま蝦夷に米穀など教え侍らば、極めて辺害をひらくべし。ことにおそるべき事なり」と建議してその義は止みにけり。

 

 つまり、蝦夷地はこれまで未開の地であったことこそがむしろ幸いだったと考えるべきで、下手に開発して魅力が増せば、それこそロシアに狙われることになる、というのが松平定信の考え方でした。

 

 定信はこれに続いて、これまでの幕府においては西国に対する備えは万全だけれども、北の守りは全く手薄であると国防の観点から議論を展開しています。

 

むかし関西には大井川・富士川・箱根・今切・気賀・桑名の海なんどを初めとして山海の御かためあるがうえにも、駿府・大坂なんどにも御番城をすえられ、西国にもそれぞれ奉行を差し置かれ、大名なども交代などしてその守りを専らとなすなり。ただ奥羽二州ことにひろけれども、そのころは山丹・満州・オロシャなど近きともさらに弁えざれば御備えもなきなり。これによってこの事を建議して評論に及べりけり。

 

  こうした考えに基づいて決まった幕府の方針が、

 

その境をかたく守り、蝦夷の地は松前に委任せられ、日本の地は津軽・南部にてその御備えを守り、渡海の場所へ奉行所建てられるべし

 

でした。

 

 蝦夷地については、これまで通り「外国」というスタンスで、松前藩に貿易独占権を認めるだけで開発には着手せず。また、今の青森県にあった津軽、南部の両藩に北方の警備を強化させるとともに、蝦夷地へ渡る湊を幕府が直轄地として奉行所を設ける、というものでした。

 

 そこにやってきたのが、ラスクマンです。ラスクマンは江戸での交渉を望んでいましたが、国防について神経をとがらせていた松平定信だったので、江戸の守りが手薄である点を非常に心配したようです。幕閣では強硬論まで含めて様々な議論があったようですが、結局は、

 

とりどり云い合いしが、いずれたやすからぬ事なり。厳にし給わんは時よろしからず。ただ礼と国法をもて事をわけ諭さるべし。

 

と決定。つまり、「今の防衛体制ではとても戦はできないので、相手を怒らせることなく、利を持って諭して、帰ってもらう」ということでした。

 

 この時に使われた「利」が「国法」であり、鎖国政策だったわけですが、これはどうも苦肉の便法にすぎず、少なくともこの時点で国法と言えるほどのものではなかったと考えた方がいいようです。

 

 これが幕末のペリー来航時には「祖法」 (=昔からの国の法律)になってしまうわけですが、なんのことはない、その始まりは蝦夷地問題の際に松平定信が定めたものであって、そんなに古い話ではないということです。

 

 それにしても。逆にペリー来航まで半世紀あまりの時があったわけですが、松平定信が懸念した江戸周辺での防禦体制構築に関して(実際に定信は各種政策を具体的に建議しています)、ほとんど進展が見られなかったということは、幕府も「たが」がずいぶんと外れていたと感じざるを得ません。

 

  幕府には金がない。幕臣は特権階級化して軍人としての気風を失い、江戸を離れて地方での「3K仕事」をやりたがらない。徳川幕府という大木が内部から腐り始めていたことがこの辺りからも見て取れます。

 

 

【江戸時代の幕府外交-「松前藩と蝦夷地」シリーズ】

米の獲れない『松前藩』から日本とは何かを考える

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江戸中期、密かに始まった通商交渉

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以上