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田沼意次はなぜ「賄賂政治家」になったのか

 北方からのロシア接近に警鐘を鳴らした『赤蝦夷風説考』は、時の幕府老中、田沼意次の目に留まります。

 

 実は幕府は幕府でこの時、大きな転換点にありました。家康が蓄えた豊富な資金は底を突き、意次は当時、急速に悪化する幕府財政の立て直しを図るべく、積極的な商業振興策を展開を模索。国防の観点のみならず、蝦夷地を通じた対ロ貿易による税収増の可能性を真剣に検討することになります。

 

 今回は、幕府の蝦夷地対策について語る前に、田沼意次と変革期にあった幕政の動向について見ていきましょう。

 

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 まず、田沼意次と聞いて、皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか。「賄賂政治家」というのが一般的ではないかと思います。高校の日本史教科書(『詳説日本史B』山川出版社、2017年発行)にも次のように記されています。

 

将軍徳川吉宗のあと、9代将軍徳川家重を経て10代将軍徳川家治の時代になると、1772(安永元)年に側用人から老中となった田沼意次が十数年間にわたり実権を握った。この時代を田沼時代という。意次はふたたびゆきづまり出した幕府財政を再建するために、年貢徴収だけに頼らず民間の経済活動を活発にし、そこで得られた富の一部を財源に取り込もうとした。

 

と説明する一方、

 

幕府役人のあいだで賄賂や縁故による人事が横行するなど、武士本来の士風を退廃させたとする批判が強まった。

 

とも評価しています。

 

 最後は失脚したこともあって、どちらかと言えば、日本史の中ではマイナスイメージのある人というのは確かなところでしょう。実際、私自身もこのような認識でした。

 

 ところが、今回、蝦夷地問題から入って、田沼意次について詳しく調べていくと、この時代の研究者の間では、非常に評価が高い人物であることにまず驚くとともに、私自身も認識を改めることになりました。

 

 江戸中期の幕府の経済改革に詳しい故大石慎三郎氏(学習院大学名誉教授)は『田沼意次の時代』(1991年、岩波書店発行)の中で、「意次=賄賂政治家」とされた史実について個々に検証した上で、

 

田沼意次についてこれまで紹介されてきた「悪評」はすべて史実として利用できるものではない

 

と最終的に断言しています。(本書はこの点以外にも、内容的にすばらしい本です。絶版ですが、歴史好きの方ならぜひご一読ください)

 

 

 それでも意次が賄賂政治家とされてしまった背景には、当時の政敵側からの悪評が多分にあったようです。今でも独立した警察や裁判制度のないような途上国で、失脚した政治家がめちゃくちゃに言われて罪に問われるようなニュースをたまに見かけますが、そのようなものです。

 

 この場合の政敵とは、意次失脚後に政権を担った人物であり、ズバリ、松平定信でした。松平定信は8代将軍吉宗の孫として生まれ、陸奥白河藩藩主となり、意次失脚後は譜代大名層の支持を得て老中に就任、幕府の実権を握ります。そして進めたのが、寛政の改革です。これは意次の進めた改革の揺り戻しでもありました。

 

 意次と定信。このふたりは別々に見るよりも、比較することで、当時の幕府内部にあった路線対立が明確に浮かび上がってきます。

 

 「幕府財政がにっちもさっちも行かないところまで悪化している」ことは万人の承知するところとして、それにどう対応するかで考え方が分かれます。

 

 意次ら急進改革派は、商業を振興してそこから新税を取っていこうとします。そのためには特定の商人を優遇することにもなったし、幕府役人の中から門閥にとらわれない有能な人材を抜擢しようともしました。(もちろん、中には本当に縁故人事もあったかもしれませんが、人事の慣例を破ろうとすると、客観的な評価制度が未整備な中では、こうした批判が付きものであると思います)

 

 意次自身、祖父の代までは紀州藩の下級藩士の家柄で、8代将軍吉宗が紀州藩から将軍として江戸に入った際に、(父が)幕臣となります。そこから有力な譜代大名でなければなれなかった老中となったわけですから、異例の大出世、悪く言えば、成り上がり者でした。

 

 これを譜代大名や旗本門閥層から見れば、おもしろいわけはありません。賄賂政治とも縁故人事だとも批判することになります。将軍の孫という伝統的なエスタブリッシュメントである松平定信を擁して政権を獲った後、昔に戻せとばかりに規律を正したものの(悪く言えば、これまでの慣例に従った政治)、新しい時代に合った有効な対策を打てず、むしろ景気の悪化を招いて寛政の改革は頓挫します。

 

 このような路線対立が当時の幕府内部で起きていたために、蝦夷地問題も二転三転していきます。実は蝦夷地対策にも、ふたりの考え方が強く出ていることがわかります。それについては次回! 

 

【江戸時代の幕府外交-「松前藩と蝦夷地」シリーズ】

米の獲れない『松前藩』から日本とは何かを考える

型破りな『松前藩』の扱いに困っていた?江戸幕府

江戸中期、密かに始まった通商交渉

『赤蝦夷風説考』蝦夷地に迫る大国ロシアの影が公に

田沼意次はなぜ「賄賂政治家」になったのか

蝦夷地問題の変転、やがて「鎖国が国法」に

日ロ領土問題の原点はウルップ島にあり 

以上