「全てが安寧と平和を呼吸していた」幕末の日本社会
『スイス領事の見た幕末日本』を読むと、当時の日本社会の様子がいきいきとよみがえってきます。筆者であるルドルフ・リンダウは来日直後の1859年(安政6年)、横浜から江戸へと散策に出かけます。安政の大獄が始まった頃でしたが、攘夷活動はまだそれほどでもなかったようです。
私が初めて江戸を訪れた際、私は『別当』(一種の馬丁)以外の案内人を伴わずに、横浜を発ったのであった。横浜と江戸の街道の途中にある大きな村である川崎で、アメリカ公使館の秘書であり、これ以上に望みようもない優れた案内人であり、最も親切な旅の連れであるヒュースケン氏に出会ったのであった。彼の別当と私の別当に暇乞いをした後、ヒュースケン氏は私に大街道を諦めさせて、畑を横切って蛇行しているとても手入れの行き届いた田舎道を抜けて、私を江戸に案内してくれたのであった。
ここに出てくるヘンリー・ヒュースケンは幕末史に残る人物です。アメリカ公使館にあって公使のタウンゼント・ハリスの秘書兼通訳として、日米修好通商条約交渉に当たりました。ハードな交渉の最前線に立っていたため、攘夷活動の標的となり、1861年1月に暗殺されます。
ただ、プライベートでは、多くの人に愛された気さくな若者だったようで(暗殺当時28歳)、リンダウも
ヒュースケン氏は、彼と知り合いであった全ての人達から惜しまれて、暗殺されて死んでしまった。
と記しています。
さて、ヒュースケンに東海道から離れた裏道を案内されて、「普段着の日本社会」を目の当たりにしたリンダウは、こう書きのこしています。
そこでは全てが安寧と平和を呼吸していた。村々も、豊かな作物に覆われた広大な平野も、野良仕事に携わっている農夫達もである。時折われわれは緩い坂道の低い丘を幾つかよじ登ると、その頂から魅惑的な全景が見渡せるのであった。水平線の遙か彼方に、さながら空のような碧い海が広がり、無数の漁船が行き来していた。そしてその小船の四角い大きな帆が、海の上を速く滑っていくのが見られた。足下には緑に萌える田圃が岸辺まで続き、素晴らしい庭園のごときものを作っていた。樹齢何百年もの木の茂みが、大きな屋根の、幻想的な建て方の、小さな畑を控えた古いお寺を包んでいた。そして紙と木で作られた白い障子が濃い緑を通して楽しげに輝いていた。暖かいそよ風がわれわれに花々の香を運び、滲み透る静けさがわれわれの周りを支配していた。全てが休息を招いていた。
のどかな江戸郊外の農村の風景に感動したリンダウは、最後にこう評しています。
今まで私はこれほどまでに自然のさなかに生きる人間の幸せを感じたことはなかった。われわれはその日の夕方江戸に着いたが、どこから来て、どこに行くのか、だれにも尋ねられなかった。
リンダウが見たのはきっとこのような風景だったか(photo by PAKUTASO)
日本全国どこでもがこのような平和な暮らしではなかったと思います。とくに当時、稲作の北限だった北東北では、たびたび冷害に見舞われて多くの餓死者を出しています。ただ、将軍のお膝元だった関東は比較的豊かだったのでしょう。
リンダウはまた別に、日本人の家には物が少なく質素である点を前向きに評価もしています。開国による産業革命の波に洗われる以前の日本人の暮らしは、人々の欲望をかき立てるような物は少なく、立身出世も限られていましたが、それはそれで別の幸せがあったような気がします。
いち早く産業革命の波に洗われた欧米からやってきた外国人の中には、この点を逆にうらやみ、また、今後到来するであろう社会の変化に対する一抹の懸念を抱く人間が少なからずいたようで、この時代の見聞録にはたびたびそのような感想が見受けられます。