グッと身近に来る日本史

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幕末外国人の横浜郊外小旅行記【鎌倉編】

 『スイス領事の見た幕末日本』(原題『日本周遊旅行』)の著者、ルドルフ・リンダウによる横浜郊外小旅行記。前回ご紹介した金沢八景を出発、今回は鎌倉を巡る旅の記憶です。鎌倉では鶴岡八幡宮や大仏といった定番の観光地も見学しますが、それよりもここでリンダウが心動かされたのは、「茶屋」と「子どもたち」でした。

 

 さて、リンダウは金沢八景の宿で「御飯とお茶だけの簡単な朝食」をすませ、鎌倉へと徒歩で向かいました。

 

 平野の外れの丘の頂上にある茶屋で、私は暫くの間足を止めた。そこで人の好い老婆から接待を受けたが、この老婆から鎌倉の聖地の地図を買い、説明を受けたのである。

 

 江戸時代は茶屋が、今で言う旅行ガイドブックを売っていて、近隣の観光地の説明までしていたんですね。なんとなく想像がつきます。

 

 ここでリンダウは日本の名所に必ずと言っていいほどある茶屋について思いを巡らします。

 

『茶屋』というのは、これまでも説明してきたように、日本中何処へ行ってもすごく沢山見られる。普通名所が作られる場所の選択は、まさに日本人の間に広まっている趣向を特徴付けている。即ち自然を美しいと感じる気持ちである。他のどんな国民にもこの点までこの気持ちを発展させた例を知らない。

 目で魅力的風景を楽しみ得る全ての足の届く場所で、『茶屋』は通行人達が自分達の眼前に展開する風景をしばしば楽しむために足を止めさせるように招いているのである。

 

  やがてリンダウは鎌倉に到着、鶴岡八幡宮に参拝します。

 

 鎌倉付近での激しい戦の結果、この町は殆ど完全に破壊されてしまった。しかしここにはかつての威光の素晴らしい名残が留められているのである。道路は江戸の最も整備されたものと同じ広さである。石で出来た橋が、時の流れと孤独に耐えてきた。寺社を取り囲む広い庭園は私がこれまでに見た中でも最も美しいものである。一本の長い道が、両側を二列の樹齢百年を超す大樹によって囲まれ、聖なる森の入口まで続いているそこに入る前に、巡礼は御影石のいくつかの門を潜るが、これがまた、飾りのない単純さの中に荘厳な美しさを秘めているのである。

 

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鎌倉・鶴岡八幡宮。幕末から外国人に人気の観光地だった

  

 ここに記されている「道路」とは今も残る参道(若宮大路)のことだと思われますが、江戸時代の主要街道はだいたいこれくらいの道幅だったということですね。

 

 興味を持ったリンダウは続いて八幡宮の関連施設の中に入ろうとしましたが、外国人ということで許してもらえず、庭園を遠目に散策するに留まったようです。ちょっと不満が募ったリンダウでしたが、それを解消してくれたのが、近隣の子供たちでした。

 

 鎌倉の庭園を長い間散歩した後、私は宿に戻った。そこで私は私の別当が馬共々待っていてくれていたからである。道に沿って沢山の子供達が私の周りに群がり、愉快に笑い声を上げ、「唐人、唐人」と叫びながら、後から付いて来た。この騒がしい連中は、しかしながら、何の害もないのであった。そして私が振り返るたびに、四方八方に散って行き、私の動きを自由にしてくれ、私が連中を楽しませていると同じだけ私を楽しませてくれたのである。 

 

 これもなんとなくイメージできる光景です。前回も書きましたが、1世紀半も前の話ですが、そこには人々の暮らしと喜怒哀楽がたしかにあったということが、伝わってきます。

 

 リンダウにとって、いいことも嫌なこともあった鎌倉小旅行でしたが、金沢八景の宿に戻ってみると、現実社会の深刻な状況に直面することになります。

 

 そこ(金沢八景)で私は横浜の宿の主人であるオランダ領事に出会った。彼は船で私を迎えに来ていたのだった。彼の話によると、横浜で、四百人の『浪人』が町に夜襲をかけ、外国人を虐殺するようだとの噂が広まっているとのことであった。この信じられない作り話など大して信用しなかったが、私が危ない田舎を長い間歩き回る危険を避けさせたいと思っていた彼は、自分と一緒に海を渡って横浜に戻ろうと提案した。

 

  この小旅行は1862年(文久2年)の9月あたりと推定されます。ちょうど生麦事件の頃で、横浜の外国人社会に大きな動揺が起き、報復合戦に発展する気配もありました。そんな緊迫した当時の空気感までが伝わってきます。