グッと身近に来る日本史

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幕末外国人の横浜郊外小旅行記【金沢八景編】

 『スイス領事の見た幕末日本』(原題『日本周遊旅行』)の著者、ルドルフ・リンダウは横浜から郊外へ小旅行に出かけた際の様子を書きのこしています。リンダウにとって地元の人々との交流は忘れられない思い出となったようで、その記述からは当時の人々の息づかいのようなものまでがいきいきと伝わってきます。

 

  幕末当時、横浜の居留地に住んでいた外国人たちにとって、横浜から海路、金沢(現在の横浜市金沢区)へ向かい、そこで1泊して翌日、馬に乗って鎌倉と江ノ島を見物するというのが、お決まりの旅行コースでした。リンダウも、

 

 私の日本周辺旅行の最後の逗留地である横浜を離れる前に、その景色のよい位置によって有名な漁師町金沢、寺社の町鎌倉、青銅製の仏陀の巨大な像である大仏、日本の伝説が慈悲深い守り神によって人々を集めている聖なる江ノ島を訪れることが残されている。

 

 横浜の居留者の大部分は、いま私が述べて来たいろんな場所を訪ねてきた。そして皆が私にこの遠足を横浜の近郊でなされ得る最も素晴らしく、最も興味深いものであると話してくれた。

 

と記述しています。現代も鎌倉などは外国人観光客であふれています。今も昔も変わりありませんね。

 

 そしてリンダウもこの外国人定番の小旅行に出かけます。生麦事件直後の1862年秋のことだったと思われます。

 

 まず到着したのは金沢。現在の横浜市金沢区で、江戸時代は歌川広重が浮世絵「金沢八景」を描いたほど景勝地として有名でした。

 

 太陽は沈み、穏やかな、美しい、澄みわたった夜が入り江と周りの丘、私が水平線に見た海と山を包んでいた。日本の夜は、大層美しい。辺りはひどく透明で、日本を訪れた気象学者達は、全く固有の現象と見ており、これまでその原因の発見に努力してきているほどである。旅行者達は、このような学者ぶった気の配りをせずとも、『日出る帝国』の星空のもとに体験した言い表しようのない魅力を全員一致して褒め得るのである。

 

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広重の「金沢八景」のひとつ「瀬戸秋月」リンダウが見たのもこのような風景だったか

 

 ここに宿を取ったリンダウは、しばらくぼーっとしていたようです。

 

  私は縁側に腰掛けて、家の敷居の上に集まって、日本人の好きな暇潰し、つまりお茶を飲み煙草をふかす暇潰しに耽っていた宿の客の会話を、聞くでもなく耳を貸して、目は、今いる場所からやや離れた入江の上で行われている漁火を追っていた。それは、まさに幻想的で、その時の様子は、今も私の記憶の中に焼きついている。

 

  この時、入り江の向かい側にある家から三味線と琴の音が聞こえてきたようで、リンダウはその音に惹かれ、宿の女将に案内してもらい、その家を訪問します。

 

 この家の人々は私の思いがけぬ訪問に初めは大層驚いた様子であったし不安を感じていたとさえ思えた。だが、この家で奏でられている音楽をもっと近くから聞くために入江の向う側から私がやって来たのだと説明すると、彼等は微笑を漏らし始め、ようこそ来られたと挨拶した。

 

  紙の提灯と若干の質の悪い蝋燭によって明かりの灯された大きな部屋の中に、私は日本人の楽しい集いを見た。それは四人の男とその女房達、二人の子供と四人の芸妓達からなっていた。(中略)会食者達の活々とした顔、嬉しそうな目、そして私が部屋に入るのを見ても困った様子も、びくびくした様子も何一つ見せないことが、日本人の家で頻繁に見られる家族のお祝の真只中に、彼等を不意に訪れたことを私に理解させてくれた。おそらくこの家の主と思われる一人の年配の男が立ち上がると、とても丁寧に挨拶をした。他の人達は手振りで、側に来るようにと誘ってくれた。女と子供は素朴な好奇心で私をじろじろ見るのであった。

 

  私はお茶を、御飯を、果物を、そして酒を出された。ナイフとフォークに代わる二本の小さな箸を使う時の私の不器用さを見てみんな楽しんでいた。私はこの親切な人達と一緒に一時間以上もいた。もし旅で疲れているし、明朝早く起きる必要があるという言い訳をしなかったら、もっと長い時間引き止められていたことであろう。男の人達は玄関先まで私を見送ってくれた。そのうちの一人は私が夜を過ごす筈の宿屋まで送るとさえ言い張った。そして私が無事安全にその宿に入るのを見届けてから戻って行った。

 

 1世紀半も前の話ですが、たしかにそこに人々の暮らし、そして喜怒哀楽があったということが、しっかり伝わってきます。

 

 最後にリンダウはこの日の思い出をこう総括しています。

 

 日本の親切な持てなしが私に残してくれた思い出は、横浜や長崎で生活してきたヨーロッパ人のだれをも驚かすことはないであろう。彼等のうちの何人かは、この日本でこれと似た歓迎を受けてきているからである。

 

 日本の「おもてなし」力は当時からだったんですね。