グッと身近に来る日本史

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『赤蝦夷風説考』蝦夷地に迫る大国ロシアの影が公に

 1779年にロシア(イルクーツク使節)と松前藩との、地方政府同士の通商交渉が行われ、松前藩が拒絶した件については前回触れました(江戸中期、密かに始まった通商交渉)。

 

 この件について、当初、松前藩は幕府に報告しなかったのですが、うわさは江戸まで流れていたようです。4年後の1783年(天明3年)になって、ロシアの蝦夷地接近に対する危機感をあおる一方で、対ロ貿易の可能性を説いた『赤蝦夷風説考』(工藤平助著)が、江戸で出版されます。

 

 これが時の老中、田沼意次の目にとまり、幕府が直接、蝦夷地調査に乗り出すことになります。その後の情勢次第では日ロ通商条約が結ばれ、蝦夷地で開港といった可能性もありました。ペリー来航に先立つこと70年ほど前のことです。

 

 江戸時代の経済が、当初の米一辺倒から海産物など広く商品全般に広がって全国を流通するようになり、蝦夷地に対する見方は大きく変わろうとしていました。(『赤蝦夷風説考』の引用は井上隆明氏による現代語訳、教育社新書より)

 

 

 筆者の工藤平助は、仙台藩の江戸詰医師が本業でしたが、蘭学をはじめ幅広い知識を持ち、交友関係も多彩でした。彼の私塾には、松前や長崎から来た門人もいて、ロシアについての情報を得やすい立場にいました。

 

 また、一説には、田沼意次の側近と親しく、むしろ幕府側から風説考の執筆をうながされ、その出版を受ける形で幕府が動いたとも言われています。政府側からの意図的な情報リークのような形です。

 

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幕府老中として一時代を築いた田沼意次。積極的な商業振興策で幕府財政の立て直しを図る。その一環として、蝦夷地にも注目した

 

 さて、実際に風説考を読むと、1779年に来訪したロシアのイルクーツク使節、シャバーリンと松前藩との交渉については直接言及はしていませんが、アイヌとは明らかに異なる「赤蝦夷」が蝦夷地によく出没している事実を紹介、彼らはたまたま漂着したのではなく、交易を目的としているとした上で、

 

 日本の心得はといえば、いずれにせよ一本の通商路はあってしかるべきだ。以前までは通商の相手といえば、島えびすに限られていたし、蝦夷人同様うちすてておいてよかったが、オロシャのごとき大国であっては、そうはいかない。

 

としています。「島えびす」とは千島列島に住むアイヌのことで、蝦夷地(現在の北海道)本島のアイヌを含め、彼らとロシアは違うとし、国として正式な通商関係を結ぶべきだと説いています。さらに、

 

 ねがわくは、交易の件を細かく吟味することだ。わたしの話に誤りがなければ、北の交易路が一本あってよいのだ。今のように、ひそかに陰で行っていては、いつまでたっても陰湿なものから抜けきれまい。

 また抜荷(密貿易のこと)の状況は知れがたいというが、内々行われていると思う。抜荷防止策は、はなはだむずかしいことだ。

 さて交易通路をひらいた場合、方法はいろいろ考えられようが、第一には要害を選び設け、第二には抜荷禁制である。いまのままの放任状態では、ますます抜荷巧者になろう。正式の交易認可こそ、いちばんよい対策だ。人情、風土も知れるし、それに応じての対策も出てこよう。

 

 と、現実に蝦夷地を舞台に抜け荷(密貿易)が行われている問題を指摘。これを放任するくらいなら、正式な交易ルートを持って、友好関係を築いた方が良いとしています。

 

 実際、公にされた風説考に驚いて(先に述べたように、もともと内々に幕府側から出版をうながしたとの説もある)、急遽、行われた幕府による現地調査によると、1779年に来訪したロシアのイルクーツク使節、シャバーリンは松前藩に通商を断られた後、素直にロシアに引き返しておとなしくしていたかと言えば、そうではなくて、蝦夷地どころか津軽海峡を越えて本州の南部領(下北半島か)まで出没、密貿易しているとの情報まで出てきます。

 

 こうなるのも、この時点で蝦夷地の主権は極めて不明瞭だったことがあります。松前藩は渡島半島最南端の松前付近こそ面で管理していましたが、あとは各地に交易拠点を展開していただけのことです。広大な蝦夷地から千島列島まで、たしかにアイヌという原住民はいるものの、彼らは強力な主権国家を持たなかったため、いったい誰のものなのか、はっきりしませんでした。これで交易のすべてを管理できるはずはありません。

 

 それでも江戸時代のはじめは、「米が獲れないような辺境の地は放って置けばいい」で済まされたのですが、江戸も中期となれば、蝦夷地を巡る環境が大きく変化します。

 

 元禄以降、社会が豊かになって流通も発達、蝦夷地の水産物などが本州へと盛んに「輸出」されるされるようになり、その経済資源が注目されるようになります。また、蝦夷地の先には領土的野心を持った大国ロシアがいる、ということも意識されるようになりました。

 

 こうした情勢の変化に、幕府はそれまでの松前藩任せの蝦夷地政策からの抜本的な見直しを迫られます。この一環として、日ロ通商条約の早期締結といった可能性もあったのですが、幕府に政変が起きて、紆余曲折が始まります。それについては次回!。

 

【江戸時代の幕府外交-「松前藩と蝦夷地」シリーズ】

米の獲れない『松前藩』から日本とは何かを考える

型破りな『松前藩』の扱いに困っていた?江戸幕府

江戸中期、密かに始まった通商交渉

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田沼意次はなぜ「賄賂政治家」になったのか

蝦夷地問題の変転、やがて「鎖国が国法」に 

日ロ領土問題交渉の原点はウルップ島にあり 

以上