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「戊辰戦争」で官軍が錦の御旗を下ろし、魅せた武士道

  前2回は『南部維新記』から、動揺する武士社会に関する記述をご紹介しましたが、今回は戊辰戦争での武士らしい話をご紹介しましょう。武士の世が風前の灯火となる中で、最後に見ることのできた武士道だったと思います。

 

南部維新記―万亀女覚え書から (1973年)

南部維新記―万亀女覚え書から (1973年)

 

 

 戊辰戦争では、東北諸藩は同名を結び、官軍に最後まで対抗しました。ただそれも、中心的な存在だった会津が落城して崩壊します。

 

 この過程では、秋田藩がいち早く同盟を離脱したことから、近隣の庄内藩や盛岡藩から報復として領内に攻め込まれます。

 

 しかし、次第に官軍側が優勢となって盛岡藩は降伏。戦後は逆に秋田藩が盛岡城を接収し、占領地管理をすることになりました。

 

 明治元年の秋、秋田藩兵6小隊が官軍として南部領内に進軍してきました。官軍と言えば、錦の御旗に鼓笛隊というイメージがありますが、この時の秋田藩兵もまさにこの通りでした。

 

 率いるのは、秋田藩の重臣、小野崎三郎通理(みちただ)。弱冠20歳の若武者でした。

 

 盛岡側はすでに恭順の姿勢を見せ、藩主もすでに江戸へと護送されていました。

 

 そのため、とくに「何事もなく…」進むはずでしたが、盛岡城下に入る直前で事件が起こります。秋田軍が突然、錦の御旗を下ろし、袋に収めた上で、城下町に入ってきたのです。

 

 この様子を実際に見た古老の回想が『南部維新記』に記されています。

 

 (秋田藩兵は)なかなか配慮が行きとどいていて、錦の旗を、ひけらかすこともなく、わざと、袋に収めて、見えないようにしてきたのです。(盛岡)藩からは下田栄光という重臣が迎えにでて接待役をしましたが、綱御門から入って、当然三の丸へいくのかと思うと、台所奉行所の建物に入りました。敗戦の城兵に、なるべくいやな思いをさせまいという心づかいがあったのでしょう。

 

 「台所奉行所」というのは、藩の勘定所を指していると思われますが、この建物は江戸時代中期以降に城に隣接する形で増築されたところで、厳密に言えば、城内ではありません。

 

 古老も語っている通り、城に直接入らないことで、少しでも盛岡藩側にいやな思いをさせないといった心遣いからだったと思います。

 

 さらに、この古老は隊長の小野崎道理について、こうも語っています。

 

 小野崎はしっかりした男で、「今度の戦争で、南部(盛岡)藩の兵学がいかに進んでいるかよくわかった。ぜひ教えを乞いたい」といってしばらく、兵学を学んだりしていましたが、占領地で、かつての敵から教えを受けるということは、当時としては、ちょっと考えられないことでした。(中略)本当に人間のよくできた人だったと思います

 

  ここで、本当に盛岡藩の兵学が進んでいたかは二の次の話でしょう。敗者に対して敬意を持って接するといった小野崎の姿勢が、盛岡側から好感を持って受け入れられていたということだと思います。

 

 先に説明したとおり、秋田藩と盛岡藩は少し前まで実際に戦っていた相手同士です。小野崎自身、兵を率いて前線で盛岡藩兵と戦っていました。もちろん、両軍とも多くの死者を出しています。心の中に私怨はあったはずです。

 

 にもかかわらず。錦の御旗の一件にはじまり、小野崎のこうした敗者に対する敬意を持った姿勢は、武士道を体現する、まさに武士の鑑であったと思います。

 

 この話は今となっては地元でももうあまり知られていない、忘れられつつある話ですが、全国的にもっと知られていい話だと思います。

 

 さて。最後に気になるのは、ラストサムライともいえるような若武者、小野崎のその後ですが、それについては以下のページで。

 

gootjapan.miyatohru.com

 

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現在の盛岡市内から見た岩手山。小野崎率いる秋田藩兵は非常に統率が取れていて、占領軍にありがちな乱暴・狼藉もなかったと伝わる。