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「岩倉使節団」維新は必然の結果とみた久米邦武

 明治4年(1871年)、岩倉具視を正使とする新生日本の大使節団が組織され、世界を広く見聞して回りました。いわゆる「岩倉使節団」です。今回はその時の様子を伝える『特命全権大使米欧回覧日記』を見ていきましょう。

 

 

 岩倉使節団は、正使の岩倉具視のほか、副使として大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らをはじめとする新政府要人46名のほか、随員、留学生を含め、100名を超す大使節団でした。中には、女子英学塾(後の津田塾大学)を開くことになる、当時わずか6歳の津田梅子もいました。

 

 この大使節団が各国で見聞した内容が『米欧回覧実記』として帰国後にまとめられたわけですが、これは使節団の公式記録というよりも、国民に海外の事情を伝えるという啓蒙的な色彩が強かったようです。大使随行で、本書の実質的な編纂者とされる久米邦武による序文には次のように記されています。

 

 西洋では、政府は国民の公的機関であり、使節は国民の代理者であるとされている。各国の官民が、我が使節を親切丁寧に迎えたのは、つまりはわが国の国民と親しくなりたいためであり、その産業の状況をそのまま見せてくれたのは、つまりはその産物をわが国民に愛用してほしいからなのである。そこで岩倉大使はこの待遇の懇切さを尊重して、我が使節が見聞したことについては、これをできるだけ広く国民に知らせなくてはならないと考え、書記官畠山義成(当時は杉浦弘蔵と称していた)と久米邦武の二人に対し、常に自分に随行し、視察したことについては調べて記録することを命じた。 

 

 久米邦武は佐賀藩出身で、藩校の弘道館では主席となるほどの秀才でした。同藩の開明的君主として知られる鍋島閑叟の近侍も務めています。実記編纂後は新政府で国史編纂に携わり、近代における歴史学者の先駆けとなりました。

 

 その久米が、序文の中で明治維新について、簡潔ながらこう言い当てています。

 

 明治維新の政治は、いまだかつてない変革であり、それは三つの要点にまとめられる。第一は、将軍が持っていた政治権力を取り上げて天皇の親裁としたことである。第二は各藩の分権であった政治を一つに集め、中央集権にしたことである。第三は鎖国制度をあらためて開国の方針を取ったことである。

 

  これらを行ったことは「神わざ」とした上で、さらに久米は考察していきます。

 

 どうしてこのようなことが起こったかをじっくり考えると、すべてが国際的な状況の変化の影響によるものであることがわかる。鎖国政策は、どうしても改めざるを得なかった。開国したとなれば、統一的政治を行わざるを得なかった。統一国家にしようとすれば将軍の政治権力を取り上げざるを得なかったのである。

 

 つまり、明治維新は開国に伴う必然の結果だったというわけです。久米は明治維新へとつながる幕末動乱を、感情論ではなく、極めて論理的に捉えていたことがわかります。そして実際にその通りでした。

 

 以前、このブログでも紹介しましたが、開国交渉に当たっていた幕府の外交官僚たち(当時選りすぐりのトップエリートと言っていいでしょう)は、最初から「開国をすれば、いずれ外様大名との間で大きなあつれきを生む」とわかっていました。

 

 幕藩体制のもとでは、幕府が管轄しているのは天領だけで、外様大名はその所領で独自の自治を行っており、国を代表して外国と交渉することは論理的に無理があるということにすぐに気づいたのです。

 

 その後、世論は紆余曲折しますが、イギリスの外交官、アーネスト・サトウが幕末の終盤で『英国策論』を著し、外交官たちの間ですでに共有されていたこの問題を公にし、これが日本人の間で広く読まれ認識されることで、一気に中央集権国家の設立へと向かいます。

 

 このあたりがその後の日本社会では、関ヶ原とからめての幕府対薩長という感情論で語られることが多く、論理的には捉えられていないような気がします。物語的にはおもしろく、そういう部分がないとはもちろん言いませんが、事の本質ではないとも言えます。冷静かつ論理的な歴史観が望まれます。

 

 それにしても。回覧実記を読んでいて思うのは、久米が物事の根本原理を突き詰めて考えていくタイプなのではないかということです。この本は単に見聞きし体験した出来事をサラッと記録しているのではなく、なんでこういうことになっているのか、かなり突っ込んで調べていて、欧米社会の底流にある根本原理まで探ろうとする意志が感じられます。

 

 このあたりは久米が、中央の政治論争には与しない一方、独自に蒸気船やアームストロング砲(の模倣)の開発を進め、ひたすら「技術立藩」を目指した鍋島閑叟率いる幕末の佐賀藩で育ったということが関係しているのかもしれません。

 

 

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