グッと身近に来る日本史

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【歴史哲学】歴史には「いま」と「むかし」しかない

 今回も岡田英弘氏の『歴史とはなにか』から歴史を哲学していきます。岡田氏はマルクス史観を批判、歴史には「いま」と「むかし」、「現代」と「古代」という二分法しかない、といいます。その真意とは、また、現代と古代を分ける境界線はどこにあるのでしょうか?。考えていきます。

 

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歴史には絶対的な法則があるとしたマルクスだったが…

 

 結局、人間が時間を分けて考える基本は、「いま」と「むかし」、ということだ。これを言いかえれば、「現在」と「過去」、さらに言いかえれば、「現代」と「古代」、という二分法になる。二分法以外に、実際的な時代区分はありえない。 

 

 岡田氏が「歴史は二分法しかない」と言い切る前提には、マルクス史観に対する批判があります。19世紀中盤から後半にかけて活躍した思想家、カール・マルクスは、人間社会にも自然界と同じような絶対的な法則が存在していて、歴史はその発展の段階を踏んでいる(発展段階説)、といった考え方を提唱します。これがマルクス史観であり、唯物史観とも言われています。

 

 「歴史に絶対的な法則はない」と考える岡田氏は、これをきっぱりと否定します。

 

 マルクス流の、現代(=近代)が歴史の結論である、という考えかたが頭にこびりついているから、古代と現代の間に、「中世」という、わけのわからないものを挿入することになる。古代-「中世」-現代というふうに時代を区分するだけでも、すでに、世界にはある一定のゴールがあり、それに向かって世界は、直線的にか、螺旋を描いてか、とにかく進化し続けている、という考えかたにとらわれていることがわかる。

 

  こうした考えに基づいて岡田氏は「中世なんかいらない」と主張しているわけですが、それでは、「いま」と「むかし」を分ける境界は何なのでしょうか?。これを岡田氏は歴史を書く側の事情から考察しています。

 

 現代を取り扱う歴史は、なるべく対象に接近して、至近距離から、ものごとの筋道をたてる。事件と事件の因果関係、そのなかで個人の人格が果たした役割などを、細部に至るまで明らかにしようとつとめる。現代史ではこのようなことが可能だし、また、そうしないと、現代史にならない。 

 

  これに対して、現代史をあるところまでさかのぼっていくと、それからさきは古代史になる。古代史では、そういう細部よりも、大まかな全体の流れを設定するほうが大切だ。あまり細部にこだわりすぎると、世界に筋のとおった物語をつけて、理解できるようにするという、歴史の効能が薄くなる。

 

  こうした考え方も一理あると思いますが、とすると、今度は具体的にその境界がどこにあるのかが問題になります。岡田氏はこれを

 

 地球規模の世界史では、十八世紀末からはじまった国民国家化の時代が、現代史の対象だ。

 

 としています。具体的には、アメリカ合衆国が成立して以降。日本に関しては、1868年の明治維新以降としています。

 

 その根拠を煎じ詰めると、一国で完結した歴史かそうでないか(国際社会の形成)といった点にあるようです。参照する史料も国際的になるし、たとえ一国の歴史と言えども、国際的な視点が必要になるからです。

 

 私自身、主に経済的な観点から産業革命以降の世界はその動き方からして根本的に変わったという認識でいます。これははからずも、時代的には岡田氏の定義する「現代史」のはじまりと一致します。岡田氏は主に政治史の観点からだと思わるのでその点は違いますが、やはりこの時代に大きな節目があるという点では一致しています。

 

 感覚的にはそのあたりなのですが、読者の方はより具体的にどうなんだと思われるでしょう。それは本一冊ぐらいの説明を要する話になりそうです。ブログではこのあたりで。