「歴史哲学」歴史は物語であり、文学である
歴史を哲学するシリーズ。今回は岡田英弘氏の『歴史とはなにか』を読みつつ、考えていきたいと思います。
以前、本ブログでは歴史哲学の分野で名著と言われる『歴史とは何か』(E.H.カー著、清水幾太郎訳、岩波書店刊)をご紹介しました。歴史哲学という地味で、難しい話なので、あんまり読まれないだろうと思っていたのですが、案外、ご好評いただいたようです。
そこで「続編を」と考えて、適当な本を探していたのですが、これが非常に難航しました。歴史哲学に関する本は探してみると結構出ているのですが、実際に読んでみると、難解で理解できなかったり、逆に簡潔に書きすぎて哲学の域に達していなかったりと、書き手の側にとっても難しいテーマであるようです。
とくに西洋の歴史家が書いた、この分野の名著と言われている本の多くは、難解過ぎて、はっきり言って私には理解不能でした。そもそも哲学的な思考が強い上に、例示されている歴史分野が西洋の古代史や宗教史、神話などで、西洋人的な高い教養がないと理解できないためです。
「日本人でも理解できる、適切な歴史哲学書はないか」と思っていたところに出会ったのが、本書です。筆者の岡田氏は永年、東京外国語大学で教鞭をとられた、日本を含む古代アジア史の専門家です。こうしたバックボーンがあるため、本書では東洋史を多く例にとりながら、岡田氏なりの歴史哲学論を展開しています。
この中からまずご紹介したいのが、次の一文です。
歴史は物語であり、文学である。言いかえれば、歴史は科学ではない。
その理由の第一として、氏は
科学を定義すれば、まず第一に、科学はくりかえし実験ができる性質がある。歴史は一回しか起こらないことなので、この点、科学の対象にならない。
としています。歴史の世界に絶対的な法則はない、ということです。
もうひとつ、氏がこう言っている理由は、歴史を記述する側、読んで理解する側、それぞれに人間がいるということです。
歴史の書き手の人間性には、イギリスの著名歴史家、E.H.カーも『歴史とは何か』(岩波書店刊)の中で着目し、
歴史を研究する前に歴史家を研究せよ
と言っています。歴史は書き手の興味によって、書きぶりが変わるためです。
さらに、岡田氏はここで歴史を読む側の人間性にも着目しています。
歴史は文学だから、一つ一つの作品には、それに備わった機能というものがある。歴史を書く側の立場から言うと、その作品で歴史家が目指した目標、狙った効果というものがある。また一方で、歴史を読む側の立場から言うと、その作品を受け取る読者が持っている、要求とか好みなどという条件がある。歴史を考える際には、この二つの面を分けて考えなくてはいけない。
歴史は文学である、とまで言われると、少しとまどってしまいますが、絶対的な法則のない分野で、書き手、読み手、それぞれの側に人間という不確かな存在がある。そう考えると、フィクションではないとはいえ、歴史はある種の「文学」と言える。岡田氏が言わんとするところはこのあたりにあるようです。