グッと身近に来る日本史

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『三四郎』通勤族の出現をいち早く描いた漱石

 漱石はロンドン留学時代から当時の最新技術だった「電車」について、時にわずらわしく思いつつも、強い関心を持っていたようで、よく記述しています。そして帰国後の1908年(明治41年)に発表した『三四郎』では、電車による通勤族の登場をいち早く紹介しています。

 

 当時の東京では、電車の敷設が相次ぎ、社会が大きく変わろうとしていました。どうも漱石は「電車」の存在を、日本社会を変える西洋文明の象徴として描きたかったようで、この小説の中で重要なキーワードのひとつとなっています。

 

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ロンドン留学経験から漱石は、東京での通勤族の出現をいち早くとらえていた (photo by PAKUTASO)

 

 たとえば、『三四郎』の主要登場人物に野々宮宗八がいます。三四郎の同郷の先輩で、理科大学(東大理学部か?)の光学研究者。彼の研究室(いわく「穴倉」)を訪ねた三四郎は、帰り際にキャンパス内をふたりで歩いていた時、ある建物について野々宮からこう説明されます。

 

 教授会を遣(や)る所です。うむなに、僕なんか出ないで好いのです。僕は穴倉生活を遣っていれば済むのです。近頃の学問は非常な勢いで動いているので、少し油断すると、すぐ取残されてしまう。人が見ると穴倉のなかで冗談をしている様だが、これでも遣っている当人の頭の中は激烈に動いているんですよ。電車より余程烈しく動いているかも知れない。

 

 

 さらにふたりはキャンパスを抜けて電車通りに出ます。

 

 「君電車は煩(うる)さくないですか」と又聞かれた。三四郎は煩さいより凄じい位である。然しただ「ええ」と答えて置いた。すると野々宮君は「僕もうるさい」と云った。然し一向煩さい様にも見えなかった。

 「僕は車掌に教わらないと、一人で乗換が自由に出来ない。この二三年来無闇に殖えたのでね。便利になって却(かえ)って困る。僕の学問と同じ事だ」と云って笑った。

 

  こうしたくだりを読んでいると、「電車」というキーワードが日本社会を変える西洋文明の象徴として使われていることがわかります。

 

 さらに漱石はこの野々宮について、時代を先取りする存在といった設定にしています。電車による通勤族です。

 

 野々宮の家は頗(すこぶ)る遠い。四五日前大久保へ越した。然し電車を利用すれば、すぐに行かれる。

 

 今でこそ、大久保は新宿の隣の駅(中央線)で、西新宿の高層ビル街ものぞめる都会ですが、当時は東京市(15区)外でした。実際、漱石は三四郎が野々宮の新居を訪ねた際の印象として、

 

 宵の口ではあるが、場所が場所だけにしんとしている。庭の先で虫の音がする。独りで坐っていると、淋しい秋の初である。

 

と書いています。本当に静かなところだったと思います。

 

 それが電車が登場して、市中心部と接続されることで、電車による「通勤」という概念が出てきます。

 

 大久保は、都心部から新宿を経由して八王子に至る甲武鉄道(後国有化されて中央線に)の駅として開業しましたが、当初は当時の都心部まで乗り入れることができず、飯田町止まりでした。

 

 それが、『三四郎』の頃には電車の時代となり、お茶の水まで開通します(電車が走ったのは中野-お茶の水間。ちなみにこれが、路面電車ではない、普通鉄道に電車が走った日本初の路線ということになります)。これにより、中央線は通勤の足として使えるようになりました。

 

  東京で本格的な「通勤電車」が走るようになるのは、大正も10年代になって。郊外での宅地開発(=田園都市構想)を掲げて開業した現在の東急電鉄からと言っていいでしょう。

 

 しかし、宅地開発といった構想こそなかったでしょうが、そこからさかのぼること10年余。結果として、中央線は東急に先んじて「通勤電車」化しつつあったことが、『三四郎』からはうかがえます。

 

 また漱石は、野々宮が大久保に引っ越した理由をこう書いています

 

 物数寄ならば当人の随意だが、もし必要に逼(せま)られて、郊外に自らを放逐したとすると、甚だ気の毒である。聞くところによると、あれだけの学者で、月にたった五十五円しか、大学から貰っていないそうだ。だから已(や)を得ず私立学校へ教えに行くのだろう。それで妹に入院されては堪(たま)るまい。大久保へ越したのも、或いはそんな経済上の都合かも知れない。・・・  

 

  少し否定的な書きぶりですが、「通勤」と引き換えにサラリーマンが庭付きの住宅に安く住むことができるという、当時としては新しい概念を紹介しています。

 

  漱石はロンドンへの留学経験から、電車が登場して中心繁華街と郊外住宅地を結ぶことで、通勤という概念ができたことを身をもって実感していました。それが「今度は東京で起きるよ」ということを、野々宮という人物を通じて描きたかったのでしょう。漱石は「その先にある答え」を知っていたのです。