グッと身近に来る日本史

読書でタイムトラベラー/時空を超えた世界へと旅立つための書評ブログ

『三四郎』漱石が変わりゆく東京に見たロンドン

 昔の小説を読んでいると、現代人とは違う当時の人々の感覚がひょっこり顔を出すことがあります。こうした感覚の違いは歴史書を読み解くだけではわからないもので、かつ、歴史を正しく認識するために重要なものでもあります。

 

 今回は、明治・大正期を代表する文豪、夏目漱石の『三四郎』を読みつつ、明治人の感覚を「感じて」いきましょう。

 

 『三四郎』は、1908年(明治41年)の秋から年末にかけて朝日新聞に連載された漱石初期の長編小説です。主人公の三四郎は熊本から東京帝国大学(現在の東京大学)に入学するために上京、大都会・東京での暮らしにとまどいつつ、様々な人に出会い、悩み多き青春生活をおくります。

 

 文芸評論家の柄谷行人氏は、漱石作品の中での『三四郎』の位置づけについて、

 

田舎から都会へ移動する『三四郎』は、都会から田舎へ移動する『坊っちゃん』と並んで、青春小説の古典として愛読されてきている。

 

と、新潮文庫版の解説で評しています。

 

 

 まず、私が当時(明治後期)の人々の感覚を感じたのは、上京したばかりの三四郎による東京の第一印象に関する次のくだりです。

 

 三四郎が東京で驚いたものは沢山ある。第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それからそのちんちん鳴る間に、非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた。次に丸の内で驚いた。尤(もっと)も驚いたのは、何処まで行っても東京が無くならないと云う事であった。

 

  この一節を現代人がただ普通に読んでも、「田舎から上京してきて、東京の人の多さと広さに圧倒されたんだろう」ぐらいの解釈になるでしょう。

 

 しかし、当時の東京の交通事情、大げさに言えば日本ひいては世界の交通発達史を頭に入れてこれを読めば、漱石の深さを感じることができます。

 

 ここで漱石があげた「電車」とは、蒸気機関車ではもちろんなく、電気機関車、しかも街中を走る路面電車のことです。実は、これが当時、街を劇的に変える最新鋭の技術でした。

 

f:id:miyatohru:20180308195934j:plain

都市化が進んで混雑する東京。馬車に代わり、街を変える最新鋭の都市交通だった「路面電車」

 

 1880年代、欧米で相次いで電気機関車が実用化されます。明治で言えば、中期頃です。

 

 それ以前からも「蒸気」機関車は走っていましたが、ひとつ問題がありました。

 

 これは「正史」的な鉄道発達史本を読んでもほとんど語られていませんが、蒸気機関車は煤煙問題(まれに火の粉が飛んで火災の恐れがあった)や騒音問題を伴うため、もっぱら使われたのは長距離の大都市間交通で(したがって通常は人のあまり住んでいない地域を走る)、街の中心部を通すことは避けられる傾向がありました。

 

  一方で、産業革命が進んで都市に人口が集中し始めると、どうしても何らかの都市交通の導入を検討しなければなりません。これは洋の東西を問わない宿命なわけですが、ここで蒸気機関車はあまり使えません。

 

 しかし、電気というクリーンなエネルギーによる機関車が発明されたことで、ロンドンをはじめとする欧米の大都市では新都市交通システムとして電気機関車の導入が急速に進みます。

 

 これに追いつこうと、日本でも1890年代に京都で路面電車が開通。東京では、1903年(明治36年)に、それまでの馬車鉄道が路面電車に切り替わります。(馬車についても、馬糞問題があって、できれば避けたい都市交通システムでした)

 

 この1903年、明治36年という年は、ちょうど漱石がロンドン留学から戻ってきた直後のこと。漱石にしてみれば、単に人が多いという問題ではなく、ロンドンを走っていた電車が、東京に戻ってみると、すぐに導入されてきたことで、「東京がロンドンの後をせわしなく追っている」ということを強く感じたのでしょう。

 

  また、漱石が「電車」の次に「丸の内」を出してきているところにも注目です。

 

 丸の内は、明治23年に明治政府から三菱財閥に払い下げられます。そこから少しずつ「三菱村」が作られていったわけですが、初期の設計を担当したのは、鹿鳴館やニコライ堂を設計したイギリス人建築家、ジョサイア・コンドルでした。

 

 それが明治も後期になると、赤煉瓦造りのビルが建ち並び、「一丁ロンドン」と呼ばれるようになります。(一丁とは100メートル)

 

f:id:miyatohru:20180308200530j:plain

大正初期の丸の内。明治後期には赤煉瓦造りのビル街を形成、「一丁ロンドン」と言われた

 

 電車が走り出したかと思えば、街までロンドンになりつつある--。東京に驚いたのは、熊本から出てきた三四郎と表向きなっていますが、実はロンドンから戻ったばかりの漱石自身だったのではないかと思います。

 

 実際、先にご紹介した引用のすぐ後で、漱石はこうも書いています。

 

明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を四十年で繰り返している。

 

 産業革命以降、優れた技術や思想が登場すると、海を越えてすぐに広まり、世界は一体的に動くようになります。(この点、私と違って漱石は300年としているので、おおむね1600年頃から。大航海時代のまっただ中、英蘭が東インド会社を設立した頃からと見ています)

 

 こうした社会の変化の仕方はそれまでの日本にはなかったことで、これに対する驚きやとまどいを感じていたのが、漱石であり、明治人であったということが、『三四郎』のこの一節から読み取ることができます