グッと身近に来る日本史

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『三四郎』街の概念が変わることに驚いた漱石

 今回も引き続き、明治・大正期を代表する文豪、夏目漱石の『三四郎』を読みつつ、明治人の感覚を「感じて」いきましょう。

 

 前回、『三四郎』漱石が変わりゆく東京に見たロンドンで引用したくだりには、もうひとつ興味深い当時の人々の感覚が表れています。

 

 三四郎が東京で驚いたものは沢山ある。第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それからそのちんちん鳴る間に、非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた。次に丸の内で驚いた。尤(もっと)も驚いたのは、何処まで行っても東京が無くならないと云う事であった。

 

 

 このうちの最後の一文、「尤(もっと)も驚いたのは、何処まで行っても東京が無くならないと云う事であった」というくだりです。

 

  これを現代人が普通に読んでも、「田舎から上京してきて、東京のケタ外れの大きさに驚いたんだろうな」と思うぐらいでしょう。

 

 しかし、そう思うのは現代人の感覚であって、明治を生きた人々には、また別の感覚がありました。

 

 実はこの話にも、前回の話同様、都市交通システムが絡んでいます。(同じ一節の一連の流れの中ですから、当然と言えますが)

 

 産業革命以前、したがって大都市への人口流入も、近代的な都市交通システムもなかった時代、街の大きさは「市民が歩いて暮らせる範囲」というのが、日本だけでなく世界的にも暗黙の了解だったようです。 

 

 たとえば、世界に先駆けて大都市化したロンドン。産業革命後、地方からの人口流入が始まった頃のロンドンについて、マルクスの盟友として共産主義思想の確立に尽力したドイツ人思想家のフリードリヒ・エンゲルスは、その著書『イギリスにおける労働者階級の状態-19世紀のロンドンとマンチェスター』の中で、 次のように記しています。

 

 数時間歩いても町のはずれにすらたどりつけず、近くに農村があると推測されるようなほんの少しの徴候も目にすることができないロンドンのような大都市は、ともかくも独特なものである。

 

 

 これは『三四郎』が世に出る60年ほど前の1842年、20歳そこそこの若者だったエンゲルスが、故郷ドイツを離れて父親が経営するイギリスのマンチェスターにあった工場に赴任するため、ロンドンに到着した時の回想です。なにやら三四郎が田舎から上京してきた際の第一印象と酷似しています。

 

 ただ、これはなにも、漱石がエンゲルスの文章をパクったということではなく、洋の東西に関係なく、産業革命前の都市はだいたい市民が歩いて暮らせる範囲だったということだったのでしょう。

 

 考えてみれば当たり前の話で、近代的な都市交通である自動車も電車もバスも無かった時代には、通勤も買い物もすべて徒歩で移動しなければならず、おのずと都市の大きさがそれによって規定されたというのも、極めて合理的な話です。

 

 実際、明治時代の東京市は15区しかありません。現代の23区からすれば、かなり狭い範囲で、山手線をひと回りどころか、ふた回りぐらい小さくしたコンパクトなものでした。これは昔の江戸からほとんど変わっていなかったようです。

 

 当時の15区名をあげれば、

 

 麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川

 

 現代人がこれを見ると、町名のように狭い範囲に思ってしまうでしょうが、紛れもなく区名です。新宿も渋谷も池袋もありません。世田谷は郊外ののどかな農村でした。これが当時の東京市の範囲だったのです。歩いて暮らせる範囲だったということが実感できるでしょう。 

 

 それが漱石の頃になって、近代的な都市交通システムである電車の登場により、東京はどんどん郊外に拡大していこうという時代になります。

 

尤(もっと)も驚いたのは、何処まで行っても東京が無くならないと云う事であった。

 

と言った場合の驚きとは、単に東京の大きさに驚いたということではなく、「都市の大きさを規定する概念が変わっていく」という明治人の驚きを意味しているのです。

 

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現代の「大東京」は電車によって維持されている(photo by PAKUTASO)