グッと身近に来る日本史

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「下関戦争」を許した大英帝国の通信事情

 前回は下関戦争の裏には、英国公使だったラザフォード・オールコックの果断とも言える行動があったことに触れました。ただ、この時のオールコックの決断は越権スレスレのきわどいものでもありました。幕末のスター外交官、アーネスト・サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』を読みながら、そのあたりを見ていきましょう。

 

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 下関戦争は、西暦で1864年(元治元年)9月5日から8日にかけて起きました。

 

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4カ国連合艦隊による下関砲撃の様子

 

 しかし、実はこの時、英国本国から急信が発せられていました。サトウの回顧録には次のように記されています。 

 

 我らの長官であるイギリス公使の責任は、まことに重大であった。当時、セイロン以東は電信が通じていなかったが、七月二十六日付の本国からの急信、すなわち日本内地においては断じて軍事行動をとることを許さず、日本政府ないし大名を相手に海軍が軍事行動をおこすのは、単にイギリス臣民の生命財産を保護するための防衛手段たる場合に限るという急信が、公使にあてて途中まできていたのであった。

 

 

 当時の大英帝国では、すでにセイロン(現スリランカ)まで電信網があったということがまず驚きですが、それから先は船便だったんですね。実際にこの船便が届いたのは、すでに下関戦争終結後だったということです。(こうした裏の事情があったからこそ、下関戦争が起きたと考えることもできます。歴史を情報伝達の側面から見る「歴史情報論」もバカにできません。) 

 

  下関戦争前、オールコックが英国に一時帰国していた際、本国政府と今後の対日政策についてどこまで詰めてきたのかは、この本を読む限り不明ですが、『幕末期の英国人-R・オールコック覚書』(増田毅著、有斐閣発行、1980年刊)には、再び帰任するに当たっての当時の英国外相、ジョン・ラッセルからの訓令が書かれており、そこには軍事的なオプションが明示されています。

 

 ところが、その後、何らかの事態の変化によって、本国からこのような急信が発せられた、と考えるのが妥当だと思います。その事態の変化とは何だったのか。有力なのが、幕府がフランスに派遣した使節団の帰国です。この使節団は横浜の鎖港をフランスに要請するも、逆に下関海峡の航行の安全を確保することを約束させられて(仮条約)、帰国しました。

 

 幕府としては、「とてもできない」とこれを突っぱねた(批准せず)のですが、当時の英国(本国)政府は、日仏間で何らかの密約があると勘ぐったのでしょう。それで、「ちょっと待った!」といった急信がオールコックへと送られたと考えるとつじつまが合います。サトウの回顧録にも以下の記述が見られます。まさに使節団が帰国した際の話です。

 

 この報知に接するや、ラザフォード・オールコック卿は、自己の計画が完全に崩壊する恐れがあると思った。もしこの仮条約の批准が行われるならば、フランス人は少なくとも連合から脱退せざるを得なくなるからである。

 

 イギリス公使がひじょうに努力してまとめ上げた外交的連合も、一時は遣外使節一行の帰朝によって分裂の危機に見舞われたが、しかし、この計画は日本使節が帰朝する以前に、すでに決定を見ていたのであった。 

 

  このようにオールコックの開戦判断にはかなりギリギリのところがありました。そのような情勢下で、うまく立ち回ったと言えます。

 

 ただし、この1件がもとで、オールコックは本国に呼び戻されます。

 

 公使はジョン・ラッセル卿(訳注:当時のイギリス外相)の意に反して行動したという廉で譴責され、そのポストから罷免されるに至ったが、公使としては、正当なことを行ったという確信をもって、自らを慰めることができたのである。 

 

  もっとも、その後、本国政府もオールコックの判断は妥当だったと認めたようで、結局、オールコックは当時、格上のポストだった清国公使に「昇進」。ここで正式に日本を離れることとなりました。

 

 桜田門外の変の直前に来日、オールコックの日本公使期間中は攘夷が吹き荒れた時代でした。それに耐えながら、最後に一撃を持って日本を変え、鮮やかに去って行ったオールコック。なかなかの仕事人でした。

 

 本当に、歴史にはいいシナリオライターがいます。