グッと身近に来る日本史

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英国が「条約勅許」を急いだ重大な理由

 ラザフォード・オールコックの後を受けて英国公使に就任したハリー・パークスの初仕事となったのが、修好通商条約の天皇による勅許でした(=条約勅許問題)。四国艦隊下関砲撃事件(=下関戦争)で、いわば国内の攘夷派に勝利した英国が、間髪入れずにこの問題を取り上げてきた裏には、これまであまり語られてこなかったある重大な理由が隠されていました。幕末の英国外交官、アーネスト・サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』などを読みながら、この問題を考えていきましょう。

 

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初代英国公使のオールコック(左)から次のパークス(右)へ、条約勅許問題が引き継がれた

 

 パークスの日本公使就任は、1865年(慶応元年)夏。この時、前年に起きた四国艦隊下関砲撃事件の賠償問題が発生していましたが、多額の賠償金支払いに幕府が難色を示していました。そこでパークスが着任するまでの代理公使だったアレクサンダー・ウィンチェスターは一計を案じ、こう考えます。

 

 大君の閣老は協約の規定にある1回五十万ドルずつ四回にわたっての支払いを続けることは不可能だと言っているから、この際下関賠償金の一部を放棄すれば、その代わりに文書による天皇の条約勅許の約束と、輸入税率を価格の五パーセントまで一率に引き下げさせることが可能になるかもしれない

 

 

 日本の輸入税率の引き下げは、貿易を推進しようとする英国としてメリットがあるという話はすぐにわかるものの、よく考えてみれば、ここでなぜ同時に条約勅許問題が出てきたのか、よくわかりません。

 

 この条約勅許問題はもともと、日米修好通商条約交渉の際、老中だった堀田正陸が朝廷に奏請したものの容れられず、その後、井伊大老が勅許を得ないまま条約に調印、そのままになっていたという経緯があります。

 

 「そのままになっていた話」ですから、「そのままでいいじゃないか」というのももっともな話で、実際、当時のジャパン・タイムズでは、何をいまさらといった論調の記事を載せます。それに対し、サトウが

 

 私はその新聞に、彼の議論を反駁する手紙を送ったが、彼を説得することはできなかった。

 

とも明かしています。英国政府としては、今ここで勅許を得ておかなければならない理由がちゃんとあったということです。

 

 その理由とは何だったのか-。残念ながら、サトウの『一外交官の見た明治維新』を読んでいても、そのあたりはあまりハッキリ書かれていません。少し消化不良気味だったのですが、別の資料、『パークス伝-日本駐在の日々』(F・V・ディキンズ著、高梨健吉訳、平凡社発行、1984年刊)に、その理由が明記されていました。

 

 

 これを読むと、実はこの問題を重要視していたのは、先代の公使だったオールコックで、彼は四国艦隊下関砲撃事件の直後、本国へ送った報告書の中で、次のような意見を述べていました。

 

 政府の崩壊は、条約を締結する権力の崩壊を意味する。外国交際の維持に強く反対する大名と対抗して、我々が最も頼りにできるのは彼(大君)とその政府以外にはない。なるほど多くの場合において、彼は頼りにならぬほど微力であるが、我々が法律的権利をふりかざして、過去に定められた約束の履行を要求できるのは、大君に対して以外はできず、また取りきめを有効かつ義務的なものにするには、彼に承認させるほかはない。彼の政府が消滅し、彼との関係がなくなれば、我々は条約の権利を主張できる唯一の堅い基盤を失うことになる。

 

 つまり、オールコックは日本を去る直前、幕府の命運がもうそれほど長くはないことを見越し、幕府が倒れても日本(新政府)との条約が有効であり続けるためには、早急に勅許を得ておく必要があると主張していたのです。

 

 これまでの幕末史の中で、こうした見方は全くと言っていいほど紹介されてきませんでしたが、言われてみれば、たしかにこれは重大な問題です。英国がここにきて条約勅許を急いだ理由がハッキリと理解できます。英国にとっては幕府が倒れる前に、どうしても踏んでおかなければならないステップだったのです。

 

 言い換えれば、すでに英国はこの時点で、幕府の崩壊を見越したシナリオを持って動き始めていたということです。(別のページでも触れましたが、オールコックの読みは的確で、先手先手と策を打ち、幕末の政局をリードする大きな存在でした。もっともっと取り上げられていい人物です。)

 

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