グッと身近に来る日本史

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英国の強い意志で日本の方向を決めた「下関戦争」

 生麦事件以降、攘夷に対する英国の反撃が始まります。対薩摩藩戦となった「薩英戦争」、同じく対長州藩戦となった「下関戦争」です。ただ、英国から見ると、このふたつの戦争には、明らかな意味の違いがありました。このあたりを英国の外交官、アーネスト・サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』を読みつつ、見ていきましょう。

 

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元治元年(1864年)、英仏米蘭の4カ国連合艦隊は下関を砲撃、長州藩の砲台を占領した

 

 生麦事件の起きた翌年、文久3年(1863年)は、国内における攘夷気運のピークでした。この年の春に上洛した14代将軍の徳川家茂は、朝廷に対し、5月10日(西暦6月25日)をもって攘夷を決行すると約束させられます。これに呼応した長州藩は、下関海峡を通航する外国船に対して砲撃を開始します。

 

 これに対し、米仏艦隊は長州藩に対して報復の砲撃をして勝利(しかし長州はその後も再び砲撃を再開)。また生麦事件の賠償でもめていた英国と薩摩藩は、ついに鹿児島で薩英戦争に突入。双方に大きな損害をもたらしています(どちらが勝ったかという点については、意見が分かれています)。

 

 さらに翌年の元治元年(1864年)には英仏米蘭の4カ国連合艦隊による下関砲撃(これについてはいろいろな呼び方がありますが、このブログでは「下関戦争」とします)と時代は流れていきます。

 

 日本史の教科書では、このあたりを国内攘夷勢力対外国という図式で語り、おおむね外国の勝利に終わったことで、攘夷勢力が力を失って西国雄藩の藩論が開国に転換、明治維新に向かう、と一連の流れを説明しています。(皆さんも、こうした一連の流れの中で「薩英戦争」と「下関戦争」、このふたつの事件を同じように考えていたのではないでしょうか)

 

 たしかに、国内から見れば、その通りなのですが、これを英国から見れば、かなり事情が違っていました。

 

 まず、薩英戦争と下関戦争の間にあたる元治元年(1864年)春、ひとりの男が戻ってきます。英国の初代公使で一時帰国していたラザフォード・オールコックです。

 

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初代英国公使、ラザフォード・オールコック。早い段階から幕府の政権担当能力に疑問を持っていた

 

 実はこのオールコック。英国公使館襲撃事件である東禅寺事件の後、英国にいったん帰国していましたが、遊んでいたわけでありませんでした。すでにこの時点で幕府の政権担当能力に強い疑問を抱いていたオールコックは、それまでの日本での経験をまとめて『大君の都-幕末日本滞在記』を出版、幕府の政権担当能力がいかにないか世論を喚起する一方、今後の対日政策について、本国政府と協議してきたのです。サトウの回想です。

 

 ラザフォード卿は帰任するに際し、実に大きな権限を与えられてきていた。彼は長州藩の敵対的態度に対し膺懲を加えようと決心していた(筆者注:膺懲=こらしめること)。

 

  

 長州藩の下関海峡における外国船の砲撃は、単なる攘夷のデモンストレーションである以上に、貿易上の大きな障害でした。下関海峡は当時の物流の主役である海上輸送上の要衝だったからです。

 

 この点で、薩英戦争とは全く意味が違っていました。薩英戦争はあくまで生麦事件の賠償問題から派生した戦争で、売られたけんかを買っただけの受け身の戦争です。英国から見て鹿児島という土地に別に意味はありません。

 

 しかし、下関海峡は英国にとって大きな意味がありました。サトウの回想にも次のようにあります。

 

 外国船は従来長崎に寄港してから、風波の高いチチャコフ岬(訳注:九州南端の佐多岬)を避けて、愉快に楽に瀬戸内海を通って横浜へ回航するのを常としていたが、今や一度も下関海峡を通ることができなくなったのだ。

 

 これでは、ヨーロッパの威信が失望すると思われた。日本国内の紛争に頓着なく、いかなる妨害を排除しても条約を励行し、通商を続行しようとする当方の決意を日本国民に納得させるには、この好戦的な長州藩を徹底的に屈服させて、その攻撃手段を永久に破壊するほかはない。 

 

 しかもこの時、幕府は攘夷の勢いに押されて、横浜の鎖港という話まで持ち出す始末。これでは時計の針を元に戻すようなもので、外国代表団は激怒。オールコック主導で英米仏蘭4カ国連合艦隊が組織され、わずか数日で長州藩は降伏します。

 

 ここは、時代というより、日本にとっての大きな転換点でした。攘夷勢力のよりどころだった長州藩が、圧倒的な火力兵器を見せつけられて諸外国に敗退したことから、鎖国論は吹き飛んでしまい、維新(本格的開国)への流れが決定的となりました。これをもって幕末の「攘夷の時代」は終わり、ここからはいよいよクライマックスとなる「倒幕の時代」へと局面が移ります。

 

 実はすぐに軍事行動を起こすか否かという点については、本国政府の意向を超えて、オールコックの独断といった部分がかなりありました(この話についてはまた別の機会に)。それでも時代の流れを読んで、果断に行動したオールコックという男、ただ者ではありません。オールコックの強い意志が日本の流れを決定づけたのです。

 

 これまでの幕末史の中ではあまり語られてこなかったオールコックですが、もっと大きく扱われていい人物であると思います。

 

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