グッと身近に来る日本史

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「下関戦争」から始まった倒幕の萌芽

 下関戦争の前後から、英国と長州藩の直接的な人的接触が始まります。相互に腹を割って話す中で、両者は幕府に対する不信感を共有するまでになり、これが倒幕へとつながっていきます。英国のスター外交官、アーネスト・サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』を読みながら、その過程を見ていきましょう。

 

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幕末、英国に留学した長州藩士の5人(長州五傑)。このうち、伊藤俊輔(後列右)と井上聞多(前列左)は、英国との開戦のうわさを聞いて、急遽、帰国した

 

 英国が長州への砲撃(下関戦争)準備を進めていた頃、英国公使のラザフォード・オールコックとその下にいたサトウのもとに、ふたり長州人が飛び込んできました。サトウの回顧録には、次のようにあります。 

 

 不思議な偶然の一致であるが、その時ちょうど、長州から洋行していた若侍五名の一行中、その二名が外国から帰朝したばかりのところだった。(中略)その名前は伊藤俊輔(訳注:後、博文)と井上聞多(訳注:後、馨)。この二人は、煉瓦塀に自分の頭をぶつけるのは無益だということを藩の同志に警告しようと、知識を身につけて、日本に帰ってきたのであった。

 

 

 ちなみに、このふたり、実は文久2年(1863年)12月に起きた英国公使館焼き討ち事件に参加した「犯人」でもありました。そのふたりが英国留学を経て、考え方を180度転換して帰国。長州と英国との間を取り持つ和平の使者を買って出たのです。

 

 英国は英国で、当初は幕府を中央政府として信任し、地方政府である藩と直接接触することを控えていた感がありましたが、江戸の公使館が襲われた東禅寺事件の後から幕府に対する信頼感を失い、生麦事件以降は幕府の頭ごなしに藩と直接接触するようになっていました。

 

 お互い少し前までは水と油のような関係で、決して交わることはなかったでしょう。しかしここで、両者の時計の針がちょうど合ったのです。本当に調べれば調べるほど、歴史の裏にはいいシナリオライターがいます。

 

 さて、オールコックはこのふたりを見込んで、藩主宛の密書を手渡します。

 

 後日、彼らは藩主の意向を伝えに戻ってきました。オールコックへの報告後、サトウと伊藤、井上は、「後刻打ち解けて話し合った」と言います。彼らは年も近く、またお互い片言のレベルであっても、直接、話し合えたのでしょう。そこでの話が次のようなものでした。

 

 彼らはまた、外国の代表は大君を見限って大阪へ行き、直接天皇と条約を結ぶために、天皇の大臣たちと会見するのが一番の上策であろうと言った。そして、きわめて痛烈に大君の政治を非難し、幕府が長崎とか新潟とかの、商業の発達しそうな場所をことごとく専有して、内外の交易を全部独占していることを責め、国民の大部分もこれと同じ考えであると言った。

 

 サトウには、話の中身もさることながら、一般の日本人の考えに直接触れることができたことが、よほど新鮮だったのでしょう。こうも記しています。

 

 これは、私が反大君派の人間と腹蔵なく充分に話し合った最初であった。

 

 極めて当たり前な話ですが、人間、腹を割って話して、お互いの誤解が解ければ、仲良くできるものです。  

 

  長州人を破ってからは、われわれは長州人が好きになっていたのだ。また、長州人を尊敬する念も起きていたが、大君の家臣たちは弱い上に、行為に表裏があるので、われわれの心に嫌悪の情が起きはじめていたのだ。

 

  難しい外交の舞台であっても、人間同士の信頼関係が大切であることがわかります。こうした信頼関係をベースとして、倒幕勢力が形成されていきます。