グッと身近に来る日本史

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「下関戦争」の激震-飛び火する倒幕思想

 幕末当時を生きた人々の史料を読んでいると、下関戦争を契機として国内に倒幕思想が広まったことが伝わってきます。英国のスター外交官、アーネスト・サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』を読みながら、そのあたりの当時の空気感を感じていきましょう。

 

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下関戦争直後に大阪で行われた西郷隆盛と勝海舟の会談。ここから西郷は倒幕思想を抱き始める

 

 前回は、下関海峡における4カ国連合艦隊による下関砲撃、いわゆる下関戦争によって、長州藩と英国との人的交流が生まれ、やがてそれが倒幕勢力の形成につながっていくというお話をしました。

 

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 さらに様々な史料を読んでいくと、直接的な英国と長州藩とのつながりだけではなく、この戦いを契機として同時期に倒幕思想が国内に「飛び火」していることが見えてきます。

 

 まず、それに先だって、アーネスト・サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』の中から興味深い逸話をご紹介しましょう。下関戦争開戦の責任を問われ、離日した英国公使、ラザフォード・オールコックの後任として、ハリー・パークスが来日した際の話です。

 

 ハリー卿は、長崎を通過の際、某々諸大名の代官たちの口から、近く内乱が起きるが、その目的は大君打倒にあるということを聞いた。

 

 

 パークスの来日は、下関戦争の翌年、1865年7月(慶応元年閏5月)。これは坂本龍馬らの周旋による薩長同盟締結の半年以上も前のことでした。驚くべき事に、この段階ですでに、西国雄藩の中では倒幕に向けての駆け引きが始まっていたということがわかります。言い換えると、こうした駆け引きの中から薩長同盟が生まれたということになります。

 

 では、その中でも長州とともに西国雄藩を代表する存在だった薩摩藩に、倒幕思想が生まれたのがいつかを考えてみましょう。

 

 これは有名な逸話が残されています。下関戦争直後の1864年10月(元治元年9月)、大阪における薩摩藩の実力者、西郷隆盛と幕臣、勝海舟との初対面となった会見です。

 

 ここで勝は、西郷に対し、「今は国内で争うときではない。幕府はもはや天下を統一する力がないから、むしろ雄藩の尽力で国政を動かし、幕府第一主義の奸臣らに一撃を加えて局面を打開し、共和政治(大名会議)をおこなうべし」と、『日本の歴史19開国と攘夷』(小西四郎著、中央公論新社発行、1974年刊)よると、述べたとされます。

 

  この会合は、西郷に初めて倒幕思想が芽生えたとされる日本史上の一大転機だったのですが(ひいては薩摩藩全体に倒幕思想が広がった)、ここでの問題は勝が何を見てそう思い、西郷にこの話をしたかという部分です。

 

 もちろん、開国以来のもろもろの出来事すべての結果ということなのでしょうが、端的に言えば、この会談が行われる直前に相次いで起きた禁門の変(蛤御門の変とも)と下関戦争、とくに私は下関戦争が大きかったと思います。

 

 ちなみに禁門の変とは、政変によって京都から追放されていた長州藩が失地回復を図って京都に攻め込み、逆に会津・桑名連合軍に撃退され、藩内攘夷派の多くが命を落とす結果となった事件です。

 

 このふたつの戦いによって、長年、幕府の目の上のたんこぶ的存在だった長州藩は徹底的に打ちのめされ、一時的あるいは相対的に幕府の権威が復権したかのような感がありました。さらに幕府はこの機に乗じて長州征伐を開始しようとします。

 

 こうした情勢下で行われたのが、勝-西郷の会談でした。勝にすれば、幕府はどこを見て戦をしているんだといった不満があったのだと思います。これは勝だけでなく、下関戦争の際、静観していた幕府の対応を批判する声(それが日本を代表する政府のやることかという批判)がありました。

 

 下関戦争で同じ日本人として長州を擁護、あるいは日本を代表する政府として諸外国との間に立って仲介の労をとろうともしなかった(できなかった、さらに言えば、この際、諸外国に長州を叩いてもらおうとさえ考えていた)幕府に対して、「もはやこの国の将来は託せない」と愛想を尽かす人間たちが出てきたというのも無理はありません。 ここから倒幕思想が広まっていった、その契機になったのが、下関戦争でした。

 

 これだけ日本の方向を決める重要な事件だった下関戦争ですが、残念ながら、これまで(20世紀)の幕末史では、それほど重要視されてこなかったように思います。たしかにこの事件の前後には、先にご説明した禁門の変、さらに第一次長州征伐など国内の大事件が重なっており、それらの間に紛れてしまって、どこかオマケで説明されている感があります。ドラマ的にも、禁門の変の方がまさにドラマチックで盛り上がります(皆さんの中もそちらのイメージの方が強いでしょう)。

 

 こうした事情から、全般的に国内政局中心の史観が強く出てしまっている気がします。ただ、当時を生きた人々の考えを追っていくと、対外戦となった下関戦争は大きな転換点だったことが伝わってきます。もっと国際的な史観を入れてバランスをとった方がしっくりくるように思います。