グッと身近に来る日本史

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米の獲れない『松前藩』から日本とは何かを考える

 江戸時代、三百諸侯と言われたあまたの大名家の中でも、蝦夷地にあった松前藩ほど特殊な藩はなかったと言えるでしょう。理由は明確。石高(米の収穫高)が基本の幕藩体制にあって、松前藩では米が獲れなかったからです。

 

 今でこそ、北海道産の米が東京のスーパーの店頭にも並んでいますが、これは今世紀に入って以降の現象であって、少なくとも江戸時代、米作の北限は青森県あたり。松前藩は一応、江戸時代を通じて最大3万石となっていますが、現実的には米が獲れないので、これは3万石相当という幕府の「みなし」措置でした。

 

 では、米が獲れないこの藩の財政基盤(ひいては存立の基盤とまで言っていいでしょう)が何かと言えば、蝦夷地の原住民、アイヌとの独占交易権にありました。交易に伴う税収によって、本州から米を買い、家臣に配給していたのです(一部の上級家臣には交易権そのものを分与していましたが、本質的には同じでしょう)。

 

 こういう藩が公然と存在していた江戸時代が本当に鎖国状態にあったのかと考えると、怪しくなってきます。それでも後世、鎖国だったと考えられてきた背景には、この藩が北辺の地にあって、日本史上、ほとんど注目されてこなかったことがまずひとつ。さらに勘ぐれば、アイヌとの関係上(アイヌが日本人なのか、外国人なのか、ひいては今の北海道が日本だったのか、外国だったのか)、近代日本国家があまり触れて欲しくなかった話だったということがあったような気がします。

 

 そうした日本人の常識を覆すのが松前藩の存在であって、その歴史を詳しく知れば、がく然とする方は多いはずです。かく言う私もそのひとりです。今回のシリーズでは『松前藩』(濱口裕介、横島公司著)を読みながら、日本とは何かを改めて考えていくことにします。

 

 

 松前藩はその成立からして、特殊でした。

 

 慶長8年(1603年)、征夷大将軍となった徳川家康は江戸幕府を創設、全国的な支配体制を構築していくことになりますが、松前藩に対しては慶長9年に家康の黒印状が与えられます。その内容は以下の通りです。

 

①諸国から松前に出入りする者たちが、志摩守(松前氏)に断りもなく、夷人(えぞじん=アイヌ)と直に商売することは、あってはならないこと。

②志摩守に断りなく渡海し、売買する者があれば、必ず言上すべきこと。

 付、夷(えぞ)については、どこへ行こうとも、夷次第であること。

③夷人に対して非分の行いをすることは、堅く禁止すること。

 

 つまり、松前藩が対蝦夷地、対アイヌ貿易の独占的な窓口であることを認める一方で、アイヌは松前藩の支配を受けないとしています。つまりアイヌは日本人の扱いではなかったということです。

 

 また、松前藩の領地については明文化されていません。江戸時代の大名は将軍が代替わりするごとに、所領を安堵する「領知判物」(りょうちはんもつ)をもらい、その公的な支配権を幕府から認められていました。

 

 家康の死後、2代将軍となった徳川秀忠は元和3年(1617年)にこの領知判物を全国の大名に交付しましたが、松前藩には交付されませんでした。

 

 領地が明文化されていないということは、「もともと米が獲れないのだから、土地の所有権を明示する必要は無い」といった考え方もあったでしょうが、「そもそも蝦夷地は外国人であるアイヌの住む地域であって、幕府の管轄する地域(=日本)ではない」といった考え方も多分にあったと思います。

 

 こうした事実から考えるに、江戸幕府成立当初、家康や秀忠および幕閣の間では、蝦夷地を日本とは考えていなかったのではないかと推測されます。松前藩のことは「外国である蝦夷地にある日本の公的な在外商館」扱いというのが妥当なところでしょう。

 

 これを裏付けるような話が松前藩の側にも残っています。元和4年(1618年)、松前藩をイエスズ会の宣教師が訪れ、2代藩主、松前公広に謁見した時のことです。当時、すでに幕府は禁教令を発令、宣教師は国外追放となっていました。しかし、ここで公広は、

 

「パードレ(神父)が松前に見えることは差し支えない。なぜなら天下がパードレを日本から追放したけれども、松前は日本ではないのです」

 

と述べたとされています。

 

 これが時代が下るにつれ、徐々に日本に組み込まれていくことになります。

 

 

【江戸時代の幕府外交-「松前藩と蝦夷地」シリーズ】

米の獲れない『松前藩』から日本とは何かを考える

型破りな『松前藩』の扱いに困っていた?江戸幕府

江戸中期、密かに始まった通商交渉

『赤蝦夷風説考』蝦夷地に迫る大国ロシアの影が公に

田沼意次はなぜ「賄賂政治家」になったのか

蝦夷地問題の変転、やがて「鎖国が国法」に 

日ロ領土問題の原点はウルップ島にあり 

以上 

 

 

幕末外国人の横浜郊外小旅行記【鎌倉編】

 『スイス領事の見た幕末日本』(原題『日本周遊旅行』)の著者、ルドルフ・リンダウによる横浜郊外小旅行記。前回ご紹介した金沢八景を出発、今回は鎌倉を巡る旅の記憶です。鎌倉では鶴岡八幡宮や大仏といった定番の観光地も見学しますが、それよりもここでリンダウが心動かされたのは、「茶屋」と「子どもたち」でした。

 

 さて、リンダウは金沢八景の宿で「御飯とお茶だけの簡単な朝食」をすませ、鎌倉へと徒歩で向かいました。

 

 平野の外れの丘の頂上にある茶屋で、私は暫くの間足を止めた。そこで人の好い老婆から接待を受けたが、この老婆から鎌倉の聖地の地図を買い、説明を受けたのである。

 

 江戸時代は茶屋が、今で言う旅行ガイドブックを売っていて、近隣の観光地の説明までしていたんですね。なんとなく想像がつきます。

 

 ここでリンダウは日本の名所に必ずと言っていいほどある茶屋について思いを巡らします。

 

『茶屋』というのは、これまでも説明してきたように、日本中何処へ行ってもすごく沢山見られる。普通名所が作られる場所の選択は、まさに日本人の間に広まっている趣向を特徴付けている。即ち自然を美しいと感じる気持ちである。他のどんな国民にもこの点までこの気持ちを発展させた例を知らない。

 目で魅力的風景を楽しみ得る全ての足の届く場所で、『茶屋』は通行人達が自分達の眼前に展開する風景をしばしば楽しむために足を止めさせるように招いているのである。

 

  やがてリンダウは鎌倉に到着、鶴岡八幡宮に参拝します。

 

 鎌倉付近での激しい戦の結果、この町は殆ど完全に破壊されてしまった。しかしここにはかつての威光の素晴らしい名残が留められているのである。道路は江戸の最も整備されたものと同じ広さである。石で出来た橋が、時の流れと孤独に耐えてきた。寺社を取り囲む広い庭園は私がこれまでに見た中でも最も美しいものである。一本の長い道が、両側を二列の樹齢百年を超す大樹によって囲まれ、聖なる森の入口まで続いているそこに入る前に、巡礼は御影石のいくつかの門を潜るが、これがまた、飾りのない単純さの中に荘厳な美しさを秘めているのである。

 

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鎌倉・鶴岡八幡宮。幕末から外国人に人気の観光地だった

  

 ここに記されている「道路」とは今も残る参道(若宮大路)のことだと思われますが、江戸時代の主要街道はだいたいこれくらいの道幅だったということですね。

 

 興味を持ったリンダウは続いて八幡宮の関連施設の中に入ろうとしましたが、外国人ということで許してもらえず、庭園を遠目に散策するに留まったようです。ちょっと不満が募ったリンダウでしたが、それを解消してくれたのが、近隣の子供たちでした。

 

 鎌倉の庭園を長い間散歩した後、私は宿に戻った。そこで私は私の別当が馬共々待っていてくれていたからである。道に沿って沢山の子供達が私の周りに群がり、愉快に笑い声を上げ、「唐人、唐人」と叫びながら、後から付いて来た。この騒がしい連中は、しかしながら、何の害もないのであった。そして私が振り返るたびに、四方八方に散って行き、私の動きを自由にしてくれ、私が連中を楽しませていると同じだけ私を楽しませてくれたのである。 

 

 これもなんとなくイメージできる光景です。前回も書きましたが、1世紀半も前の話ですが、そこには人々の暮らしと喜怒哀楽がたしかにあったということが、伝わってきます。

 

 リンダウにとって、いいことも嫌なこともあった鎌倉小旅行でしたが、金沢八景の宿に戻ってみると、現実社会の深刻な状況に直面することになります。

 

 そこ(金沢八景)で私は横浜の宿の主人であるオランダ領事に出会った。彼は船で私を迎えに来ていたのだった。彼の話によると、横浜で、四百人の『浪人』が町に夜襲をかけ、外国人を虐殺するようだとの噂が広まっているとのことであった。この信じられない作り話など大して信用しなかったが、私が危ない田舎を長い間歩き回る危険を避けさせたいと思っていた彼は、自分と一緒に海を渡って横浜に戻ろうと提案した。

 

  この小旅行は1862年(文久2年)の9月あたりと推定されます。ちょうど生麦事件の頃で、横浜の外国人社会に大きな動揺が起き、報復合戦に発展する気配もありました。そんな緊迫した当時の空気感までが伝わってきます。

 

幕末外国人の横浜郊外小旅行記【金沢八景編】

 『スイス領事の見た幕末日本』(原題『日本周遊旅行』)の著者、ルドルフ・リンダウは横浜から郊外へ小旅行に出かけた際の様子を書きのこしています。リンダウにとって地元の人々との交流は忘れられない思い出となったようで、その記述からは当時の人々の息づかいのようなものまでがいきいきと伝わってきます。

 

  幕末当時、横浜の居留地に住んでいた外国人たちにとって、横浜から海路、金沢(現在の横浜市金沢区)へ向かい、そこで1泊して翌日、馬に乗って鎌倉と江ノ島を見物するというのが、お決まりの旅行コースでした。リンダウも、

 

 私の日本周辺旅行の最後の逗留地である横浜を離れる前に、その景色のよい位置によって有名な漁師町金沢、寺社の町鎌倉、青銅製の仏陀の巨大な像である大仏、日本の伝説が慈悲深い守り神によって人々を集めている聖なる江ノ島を訪れることが残されている。

 

 横浜の居留者の大部分は、いま私が述べて来たいろんな場所を訪ねてきた。そして皆が私にこの遠足を横浜の近郊でなされ得る最も素晴らしく、最も興味深いものであると話してくれた。

 

と記述しています。現代も鎌倉などは外国人観光客であふれています。今も昔も変わりありませんね。

 

 そしてリンダウもこの外国人定番の小旅行に出かけます。生麦事件直後の1862年秋のことだったと思われます。

 

 まず到着したのは金沢。現在の横浜市金沢区で、江戸時代は歌川広重が浮世絵「金沢八景」を描いたほど景勝地として有名でした。

 

 太陽は沈み、穏やかな、美しい、澄みわたった夜が入り江と周りの丘、私が水平線に見た海と山を包んでいた。日本の夜は、大層美しい。辺りはひどく透明で、日本を訪れた気象学者達は、全く固有の現象と見ており、これまでその原因の発見に努力してきているほどである。旅行者達は、このような学者ぶった気の配りをせずとも、『日出る帝国』の星空のもとに体験した言い表しようのない魅力を全員一致して褒め得るのである。

 

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広重の「金沢八景」のひとつ「瀬戸秋月」リンダウが見たのもこのような風景だったか

 

 ここに宿を取ったリンダウは、しばらくぼーっとしていたようです。

 

  私は縁側に腰掛けて、家の敷居の上に集まって、日本人の好きな暇潰し、つまりお茶を飲み煙草をふかす暇潰しに耽っていた宿の客の会話を、聞くでもなく耳を貸して、目は、今いる場所からやや離れた入江の上で行われている漁火を追っていた。それは、まさに幻想的で、その時の様子は、今も私の記憶の中に焼きついている。

 

  この時、入り江の向かい側にある家から三味線と琴の音が聞こえてきたようで、リンダウはその音に惹かれ、宿の女将に案内してもらい、その家を訪問します。

 

 この家の人々は私の思いがけぬ訪問に初めは大層驚いた様子であったし不安を感じていたとさえ思えた。だが、この家で奏でられている音楽をもっと近くから聞くために入江の向う側から私がやって来たのだと説明すると、彼等は微笑を漏らし始め、ようこそ来られたと挨拶した。

 

  紙の提灯と若干の質の悪い蝋燭によって明かりの灯された大きな部屋の中に、私は日本人の楽しい集いを見た。それは四人の男とその女房達、二人の子供と四人の芸妓達からなっていた。(中略)会食者達の活々とした顔、嬉しそうな目、そして私が部屋に入るのを見ても困った様子も、びくびくした様子も何一つ見せないことが、日本人の家で頻繁に見られる家族のお祝の真只中に、彼等を不意に訪れたことを私に理解させてくれた。おそらくこの家の主と思われる一人の年配の男が立ち上がると、とても丁寧に挨拶をした。他の人達は手振りで、側に来るようにと誘ってくれた。女と子供は素朴な好奇心で私をじろじろ見るのであった。

 

  私はお茶を、御飯を、果物を、そして酒を出された。ナイフとフォークに代わる二本の小さな箸を使う時の私の不器用さを見てみんな楽しんでいた。私はこの親切な人達と一緒に一時間以上もいた。もし旅で疲れているし、明朝早く起きる必要があるという言い訳をしなかったら、もっと長い時間引き止められていたことであろう。男の人達は玄関先まで私を見送ってくれた。そのうちの一人は私が夜を過ごす筈の宿屋まで送るとさえ言い張った。そして私が無事安全にその宿に入るのを見届けてから戻って行った。

 

 1世紀半も前の話ですが、たしかにそこに人々の暮らし、そして喜怒哀楽があったということが、しっかり伝わってきます。

 

 最後にリンダウはこの日の思い出をこう総括しています。

 

 日本の親切な持てなしが私に残してくれた思い出は、横浜や長崎で生活してきたヨーロッパ人のだれをも驚かすことはないであろう。彼等のうちの何人かは、この日本でこれと似た歓迎を受けてきているからである。

 

 日本の「おもてなし」力は当時からだったんですね。 

 

 

「全てが安寧と平和を呼吸していた」幕末の日本社会

 『スイス領事の見た幕末日本』を読むと、当時の日本社会の様子がいきいきとよみがえってきます。筆者であるルドルフ・リンダウは来日直後の1859年(安政6年)、横浜から江戸へと散策に出かけます。安政の大獄が始まった頃でしたが、攘夷活動はまだそれほどでもなかったようです。

 

 私が初めて江戸を訪れた際、私は『別当』(一種の馬丁)以外の案内人を伴わずに、横浜を発ったのであった。横浜と江戸の街道の途中にある大きな村である川崎で、アメリカ公使館の秘書であり、これ以上に望みようもない優れた案内人であり、最も親切な旅の連れであるヒュースケン氏に出会ったのであった。彼の別当と私の別当に暇乞いをした後、ヒュースケン氏は私に大街道を諦めさせて、畑を横切って蛇行しているとても手入れの行き届いた田舎道を抜けて、私を江戸に案内してくれたのであった。

 

  ここに出てくるヘンリー・ヒュースケンは幕末史に残る人物です。アメリカ公使館にあって公使のタウンゼント・ハリスの秘書兼通訳として、日米修好通商条約交渉に当たりました。ハードな交渉の最前線に立っていたため、攘夷活動の標的となり、1861年1月に暗殺されます。

 

 ただ、プライベートでは、多くの人に愛された気さくな若者だったようで(暗殺当時28歳)、リンダウも

 

ヒュースケン氏は、彼と知り合いであった全ての人達から惜しまれて、暗殺されて死んでしまった。

 

と記しています。 

 

 さて、ヒュースケンに東海道から離れた裏道を案内されて、「普段着の日本社会」を目の当たりにしたリンダウは、こう書きのこしています。

 

そこでは全てが安寧と平和を呼吸していた。村々も、豊かな作物に覆われた広大な平野も、野良仕事に携わっている農夫達もである。時折われわれは緩い坂道の低い丘を幾つかよじ登ると、その頂から魅惑的な全景が見渡せるのであった。水平線の遙か彼方に、さながら空のような碧い海が広がり、無数の漁船が行き来していた。そしてその小船の四角い大きな帆が、海の上を速く滑っていくのが見られた。足下には緑に萌える田圃が岸辺まで続き、素晴らしい庭園のごときものを作っていた。樹齢何百年もの木の茂みが、大きな屋根の、幻想的な建て方の、小さな畑を控えた古いお寺を包んでいた。そして紙と木で作られた白い障子が濃い緑を通して楽しげに輝いていた。暖かいそよ風がわれわれに花々の香を運び、滲み透る静けさがわれわれの周りを支配していた。全てが休息を招いていた。

 

 のどかな江戸郊外の農村の風景に感動したリンダウは、最後にこう評しています。

 

今まで私はこれほどまでに自然のさなかに生きる人間の幸せを感じたことはなかった。われわれはその日の夕方江戸に着いたが、どこから来て、どこに行くのか、だれにも尋ねられなかった。

 

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リンダウが見たのはきっとこのような風景だったか(photo by PAKUTASO)

 

  日本全国どこでもがこのような平和な暮らしではなかったと思います。とくに当時、稲作の北限だった北東北では、たびたび冷害に見舞われて多くの餓死者を出しています。ただ、将軍のお膝元だった関東は比較的豊かだったのでしょう。

 

 リンダウはまた別に、日本人の家には物が少なく質素である点を前向きに評価もしています。開国による産業革命の波に洗われる以前の日本人の暮らしは、人々の欲望をかき立てるような物は少なく、立身出世も限られていましたが、それはそれで別の幸せがあったような気がします。

 

 いち早く産業革命の波に洗われた欧米からやってきた外国人の中には、この点を逆にうらやみ、また、今後到来するであろう社会の変化に対する一抹の懸念を抱く人間が少なからずいたようで、この時代の見聞録にはたびたびそのような感想が見受けられます。

 

 

gootjapan.miyatohru.com

 

【黒船来航】で欧米社会の日本への関心は?

 幕末に日本を訪れたドイツ人、ルドルフ・リンダウは『スイス領事の見た幕末日本』(原題:日本周遊旅行)の中で、当時の日本人の暮らしぶりを、豊かな表現で描写しています。今回は、これを読みながら、幕末にタイムスリップしていきましょう。

 

 

 リンダウはプロシア生まれのドイツ人ですが、スイスの時計組合を中心としたスイス通商調査派遣隊の長として、1859年に初来日します。安政6年、ちょうど井伊大老による安政の大獄が始まった頃です。

 

 リンダウはその後、駐日スイス領事となりましたが、もともと生粋の職業外交官ではなく、さらにスイスという、肉食系の欧米列強諸国とは距離を置く国という事もあって、本書は政治的な側面より、日本社会の観察に優れていると言えます。リンダウ自身、別に多くの著作を残していることから、文筆家とも言える人物です。

 

 本書のまえがきでリンダウはまず、この時代の欧米での日本に対する関心について、こう述べています。

 

 ヨーロッパが極東に寄せる関心は、ここ数年来、奇妙と思われる程に増大してきている。つい四半世紀前まで、シナと日本はわれわれヨーロッパ人には殆ど未知の国であった。(中略)学問というこの上なく厳しい道を歩むことになった幾人かの学者以外だれも、そんな遠くにある国で起こっていることなど、たいして気にはしなかったのである。

 

  この本が書かれたのは1863年から64年のことですから、その「四半世紀前」となると1840年あたり。ちょうど蒸気船が大洋(大西洋)を横断し始めた頃です。

 

 蒸気汽船による航海は極東の社会に対するヨーロッパの立場を完全に変えてしまった。それはいわばわれわれヨーロッパ人を、あの偉大で神秘的な国の門口に立たせることになった。これらの国で揺れ動いている事件は、もはや学者達の好奇心を呼び起こすものではなく、政治家達の気遣いの的となってきているのである。これら新しい世代にとって、シナと日本で起こっていることを知らぬことは許されぬことである。これら二つの帝国の現代史は、われわれヨーロッパ人の歴史の一部となって来ているのである。

 

 以前から帆船が世界を航行していましたが、この時代になって蒸気船が大洋を越えて航行し始め、世界がより一体化し始めたことが、これを読むと伝わってきます。ペリーの来航と日本の開国もこうした国際情勢の変化による必然と言えるでしょう。

 

 まえがきの最後にリンダウは欧米の文明に触れた日本とシナの今後について、こう述べています。

 

これらの国にあっては、外国人の到来は深刻な動揺を与えたのである。それらは私的な生活ともども公的な生活にも深い傷をもたらしたのであり、それが原因となって国全体に広まっていく混乱は、そう遠くない日にこの両国を完全な改革に導くことになろう。

 

  繰り返しますが、この本が書かれたのは1863年から64年のことなので、日本では文久3年にあたります。薩英戦争や8月18日の政変で七卿が都落ちした頃で、幕末もいよいよ後半戦、維新へ向けた動乱の時代が始まった頃です。

 

 この段階ですでにリンダウは「完全な改革」(明治維新=革命と言ってもいいでしょう)不可避とみながら、変わりゆく日本社会を暖かな目で観察しています。具体的には、次回!