グッと身近に来る日本史

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「桜田門外の変」その時、英国公使館は?

 幕末の英国公使、ラザフォード・オールコックの記した『大君の都-幕末日本滞在記』を読むシリーズ3回目。今回はオールコックが実際に体験した桜田門外の変直後の混乱ぶりと、英国公使館の初動対応について見ていきましょう。

 

 

 オールコックは安政7年(1860年)3月、横浜の外国人居留地に数日間出張後、江戸に戻ってきます。東禅寺にあった公使館に着いたところ、待っていたのが大老である井伊直弼の暗殺、すなわち桜田門外の変の第一報でした。

 

 この時の感想をオールコックはこう記しています。

 

 とても信じがたい驚くべき性質のもので、知らされた内容を信じることをためらった。

 

 当初は情報が錯綜していたようで、

 

 ある人は、かれはその場で殺されて首をもち去られたといい、他の人は、とくに政府側の通報者はみな、かれは負傷しただけで生存しているといった。

 

と、井伊大老の生死すら確認できない混乱した状況だったことが伝わってきます。

 

 こうした中、オールコックは、公使館から外科医を派遣する旨を幕府に伝えます。これには、生死を含めて井伊大老の病状を探るといった意味が含まれていたのでしょう。しかし、幕府は

 

 閣老たちは何日間もていねいな返信をよこしつづけ、援助を辞退するともに容体書をそえて、「かれは前よりも悪くない」というふうに、十分に容体を知らせてきた。その真相は、当該事件にかんする忠実な保証人の言をもってしても、たしかではなかった。

 

 と、あいまいな回答に終始。

 

 そのため、英国公使館では独自に情報収集に努めたようで、事件の詳細が本書には記されています。ただ、それには時間を要しました。ようやく事の真相をつかんだのは、

 

  フランスのカフェに相当する日本の建て物である浴場の公けの世間話になるようになってからだ。

 

 と、オールコック自身、皮肉ともユーモアともとれるような比喩を交えつつ、明らかにしています。

 

 はっきりしない幕府の対応はこの事件以降も続き、英国側の不信が募っていくことになります。オールコックだけではなく、後に来日する同じ英外交官のアーネスト・サトウの回顧録を読んでも、似たような話が出てきます。

 

 歴史教科書にはこの種の話は出てきませんが、こうした細かい不信感の積み重ねが、ひいては英国が幕府を見限る一因になっていったような気がします。歴史を作っているのは、あくまで人間であり、感情の部分を否定することはできません。