歴史情報論-政局の動くところ毒殺説あり
明治維新までの日本は、実に怪しげな社会だったと思います。権力者の犯罪をまともに裁くことができなかったからです。
他人に罪をかぶせたり、毒殺したり、といったことが実はかなり行われ、しかもその事実が闇から闇へと葬られていたような気がします。表の史実からだけではわからない、後ろになにかある、というモヤモヤ感があるのです。
歴史を語る場合、これはつらいところで、うわさはある、けれども確証がないといったグレーゾーンの話をどう扱うか-。となると、無難なところで、話を避けてきたということになってきたのだと思います。
しかしだからと言って、これらをすべて避けていては、これはこれで当時の社会の実態には迫れません。そこで、歴史情報論です。確証がなくとも、情報は情報としてきちんと語るいった領域を設けておくべきです。
毒殺説については、将軍や藩主が象徴化した江戸時代後半に増えているような気がします。とくに、幕末の徳川将軍家を見ると、12代家慶、13代家定、14代家茂、それぞれに毒殺説があります。
いずれもその死とともに政局が大きく動いているので、毒殺説にもそれなりの説得力があります。
ただ、中でも、さすがにこれは怪しいだろうと思われるのが、13代将軍、徳川家定を巡るうわさ。NHKの大河ドラマにもなった天璋院篤姫の夫です。
13代将軍、徳川家定。死因は、脚気の悪化ともコレラとも言われているが…
「史実」では、子供もなく、病状の悪化していた家定の後継を巡って、水戸藩の徳川斉昭(一橋派)と大老の井伊直弼ら(南紀派)が争う中、家定自身が後継は南紀派の推す紀州藩の徳川家茂と決めた直後に急死。その後、斉昭ら一橋派が一斉に処分されます。安政5年夏のことでした。
家定の死因は、脚気の悪化とされています。脚気は夏に悪化するようで、実際、脚気が原因で亡くなった14代将軍の家茂も、夏に亡くなっています。そう考えると、一応、理にはかなっています。(ただし、一説にはコレラだったとも言われています)
しかし、当時の英国公使、ラザフォード・オールコックは、12代家慶、13代家定ともに毒殺されたと『大君の都-幕末日本滞在記』(岩波書店刊)に書き記しています。
この本は、もともと維新前の1863年にニューヨークで出版されたものです。国内であれば発禁処分だったでしょうが、外国人が海外で発表したものなので、日の目を見ることができたのだと思います。
さて、それによると、
水戸候は、諸外国とのあいだに新たに樹立された関係に敵意をいだく強力な諸大名の一団のかしらとなって、ときの大君を毒殺して、そのあとをつごうと企てたのであった。
さらにこの本の中では、それを察知した大老の井伊直弼が、殿中の将軍側近たちを取り調べ、斉昭派の者を自白させた上、斉昭自身にも謹慎を迫った、と事細かな説明が続きます。さらに、大老はこの件を逆手にとって、後継者には自分が推す南紀派の家茂を据えたというのです。そして、最後には、
以上は、一般にうけいれられている記録によるものだが、これは大老の裏切り行為であり、背信であった。それがどのような復讐をうけたかは、のちほどわかるであろう。
と締めくくっており、この件が桜田門外の変につながったとみています。「一般にうけいれられている記録」が具体的にどのようなものだったか、ハッキリしませんが、当時の英国公使館の情報網を駆使して調べ上げた結果でしょう。
また、別の資料にも毒殺説がみられます。明治の末に出版された『側面観幕末史』(桜木章著、啓成社のち東京大学出版会発行)です。本書は、幕末における、歴史の正書では扱われないようなうわさ話ばかりを集めた内容のものです。
ここでは、「公方様の毒殺」として1章を割き、家定の死にまつわるうわさ話を書き記しています。個人名をあげて、家定の死の前後に側近が相次いで罷免されたり、御用部屋に遺書を貼り付けて自殺(抗議の切腹か)していることを指摘しています。担当の奥医師も処罰されました。具体的な名前まで示されると、うわさの現実味がかなり出てきます。
よくよく考えてみれば、いくら大老とはいえ、御三家の前藩主を処罰するなどよほどのことがない限りできません。御三家は徳川幕府にとって特別な存在であり、一種の治外法権的な存在でした。
一応、斉昭処罰の理由は将軍後継問題を巡り、無断で登城したということに史実でなっていますが、本来、この程度の問題で処罰できるような存在ではありません。オールコックが指摘している通り、斉昭が何の申し開きもできないような重大な事実を井伊大老側が握っていたと考える方が合点がいきます。
うわさだからと言って、簡単には切り捨てられない話もあるのです