グッと身近に来る日本史

読書でタイムトラベラー/時空を超えた世界へと旅立つための書評ブログ

それでも日米修好通商条約が調印された裏事情

 『ハリス日本滞在記』を読んで歴史を考えるシリーズの最終回。今回は諸大名の反対にあいながらも調印された日米修好通商条約交渉の裏で、ハリスひいては米国がどう動いていたのかにスポットを当てます。

 

 

 諸大名の猛反対にあった日米修好通商条約交渉は、最終的に、天皇の判断を仰ぐことになりました。ハリスは幕府の交渉委員を通じ、京都で朝廷の説得に当たっていた老中の堀田正睦(備中守)から書簡を受け取り、その厳しい空気を知ることになります。

 

 ミヤコの事情は言葉で現しうる以上に困難だ。ミヤコでは堀田備中守を暗殺しようとする陰謀があり、ミヤコの壁々に彼の生命をおびやかす貼札がはられている。ミヤコとその隣接地の住民は非常な興奮状態にある。ミカドは言った。「汝が大名たちの承諾をえたとき、私は私の承諾をあたえよう」と。 

 

  つまり時の孝明天皇は「全会一致なら」といった条件をつけることで、事実上、条約調印を認めなかったということです。

 

 こうなると、幕府-ハリスとしては万事休すということになるわけですが、それでも条約は安政5年夏に調印されることになります。

 

 これについて日本史の教科書では、この直前に大老に就任した井伊直弼が反対を押し切って調印したと説明されているので、「井伊大老=豪腕政治家」といった印象を持たれている方も多いと思います。 

 

 しかし、この交渉をハリスひいては米国側から見ていくと、彼らが巻き返しに動いた結果として、井伊大老も熟慮の末、「調印やむなし」の心境に至ったことが見えてきます。

 

 ただ、残念ながら、この重大な局面以降のハリスの日記がなぜかないのです。『ハリス日本滞在記』の訳者である坂田精一氏は解説の中でこう述べています。 

 

 それらの時代を通じて、彼の日記が全然見当たらないというのは、どうしたわけであろうか。タウンゼント・ハリスほどの几帳面な人が、その長い間の日記を全く怠ったものとは考えられない。この事実は一つの謎であると共に、史家の大きな嘆きとなっている。

 

 ハリスは条約調印後も4年近く米国の代表として日本に留まっていました。彼の日記を読んでいると、私的な性格のものではなく、後世に史料を遺すといった意識が感じられることから、この後の日記が全くないのは私も不思議な気がします。

 

 しかし、現実にないものはないので、この重大局面におけるハリスの動静は詳しくはわかっていません。ただ、概況としてはこうなります。

 

 条約調印の1週間前に米国の汽船が下田に入港、中国での最新の情勢をハリスに伝えます。英仏の連合軍が清での反乱を制圧して天津条約を結び、そのまま日本に連合艦隊を派遣しようとしている、というものでした。

 

 これを聞いたハリスはすぐに老中の堀田正睦に急報。幕府は動揺し、井伊大老も「調印やむなし」となって、一転、勅許を待たずに条約は調印されることになります。

 

 これだけの重大局面ですから、ハリス自身がどう考えて、具体的に幕府にどのような形で情報を伝えたのか、本当に興味のあるところですが、繰り返しますが、この少し前からの日記がないのです。

 

 何者かが意図的に日記を隠した(捨てた)のか、たまたま紛失したのか定かではありませんが、それにしても、計ったようにこの重大局面からなくなっている点が気になります。

 

 これは日本史上の大きなミステリーのひとつだな、と思っていたら、偶然にもその謎を解く手がかりが見つかりました。なんとそれは、ハリスの通訳だったヘンリー・ヒュースケンの日記の中に隠されていました。

 

gootjapan.miyatohru.com