グッと身近に来る日本史

読書でタイムトラベラー/時空を超えた世界へと旅立つための書評ブログ

英国が攘夷の標的となった意外な理由!?

 幕末の英国公使、ラザフォード・オールコックの記した『大君の都-幕末日本滞在記』を読むシリーズ2回目。今回はオールコックが、英国が攘夷の標的となっていることに対して、必要以上に被害妄想的になっていたその意外な理由について明らかにしていきます。

 

 

 米国のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約を調印してから、およそ1年後の安政6年(1859年)5月、オールコックは来日します。

 

 この時すでに、米国に続いて、英、仏、露、蘭の4カ国が米国同様の修好通商条約を幕府と結んでいたのですが、オールコックはとくに自分たち英国に対する日本国内からの風当たりの強さを感じていたようです。

 

 その理由を彼自身、考えた結果として、日米修好通商条約の交渉過程に原因があると見ていたことが本書からは読み取れます。

 

 この条約交渉の最終局面では、ハリスの「力技」(あるいは「裏技」)があったことは以前、このブログで述べた通りです。

 

gootjapan.miyatohru.com

 

 つまりハリスが、清で勝利した英仏の連合艦隊が、今度は日本に攻めてくる可能性が高いという情報を幕府に伝え、動揺した幕府は急転、条約に調印したというものです。

 

 オールコックが問題視しているのはこの点です。米国は英国の軍事力を利用して条約を結んだ、英国は不当に悪者扱いされている、というのです。

 

 自分はなんらの物質的支援も強圧も用いずに目的を達成したというのが、まったくのところハリス氏がとくに誇りとし、自慢するところであった。つまり、理性と議論と外交術の勝利だ、というわけだ。これは、まったくわたしの理解に苦しむところであって、じつをいうとひじょうに疑わしく思う。

 

  オールコックとハリスは同時期の駐日総領事(公使)だったということもあって、お互い連絡は取り合っていたようで、

 

 以下にのべる詳細は、ハリス氏じしんの行動にかんするかぎり、すすんで同氏じしんがのべられたものであり、その情報を利用することに全面的な許可もえている。

 

とことわった上で、持論を展開しています。

 

 英国の好戦的・侵略的行動が(当時の)国際社会から非難されることは今回に始まったことではないが、と前置きしつつ、

 

 このイギリスの行動が今回ほど決定的に非難されたことは、いまだかつてなかった。しかも今回は、新しい国においてであり、平和の使徒-アメリカ合衆国代表そのひと-の手によってであったのだ。戦争中の連合国(英仏両国)をこれほどたくみに利用し、日本人にはおそるべきもののように思わせ、しかもこれを遂行するに当たっては、大遠征の出費をかけないのに遠征したと同じだけの利益と信望を合衆国に与えるように仕組み、他方大英帝国には、好戦的であり、うるさい国であるといういまわしい評判だけがのこされた。

 

 そして最後に、オールコックはこうしたハリスの交渉について

 

 このことは、まさに達人のわざであった。

 

 と皮肉たっぷりに結論づけています。

 

 私にはオールコックの被害妄想のようにしか感じられませんが、2度に及ぶ英公使館襲撃事件(東禅寺事件)、また長州藩の高杉晋作らによる英公使館焼き討ち事件と、現実に英国が執拗に攘夷志士から狙われていたことは確かです。米国も通訳官のヒュースケンが暗殺されるといった被害にあっていますが、英国の方がより深刻です。

 

  こうした英国を標的した攘夷事件が重なって、オールコックを始めとした英国の外交官の間に多分に被害妄想的な心理が生まれ、積み重なっていったのでしょう。

 

 結果、薩英戦争や4カ国連合艦隊による下関砲撃といった英国の反撃につながっていくわけですが、それがもとで今度は薩長両藩との友好関係が生まれて倒幕勢力が形成されるという、これまた皮肉な結果となって歴史は転がっていきます。

 

 歴史には、意外性を伴いつつも、確実に流れがあるということを感じます。