グッと身近に来る日本史

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「ヒュースケン殺害」外交団が激怒した某重大事件

 幕末の英国公使、ラザフォード・オールコックの記した『大君の都-幕末日本滞在記』を読むシリーズ5回目。桜田門外の変後、攘夷運動が高まり、米国公使館通訳のヘンリー・ヒュースケンが殺害。彼の葬儀の日、オールコックはじめ外国代表たちを激怒させた某重大事件が起こります。

 

 

 桜田門外の変後、各国公使館は幕府の派遣した護衛の兵であふれるようになりました。変後、オールコック自身、身に迫る危険を感じるようになります。

 

 外国公使館が、公使館そのものにたいする敵意からというよりも、むしろ現存する政府を諸外国とのあつれきにまきこむという考えにもとづいて、つぎの攻撃目標とされるかも知れぬと考えられていたことは明白だ。政府要人と外国代表とがひじょうに危険であるように思われた。

 

  当時、攘夷活動の中核にいたのは、なんと言っても水戸でした。その水戸では、変後半年とたたないうちに、先代藩主で攘夷のシンボル的な存在だった徳川斉昭が死去。

 

 実は晩年の斉昭は開国論に傾いていたと言われていますが、それを公にすることなく亡くなり、「攘夷の遺志」だけが独り歩き、暴走していくことになります。

 

 明けて1861年元旦(万延元年11月21日)には、オールコックは米国公使のタウンゼント・ハリスの伝令として訪れた通訳官のヒュースケンから次のような情報を得ます。

 

 水戸の老公(徳川斉昭)の離任した家臣とおぼしき数百名の多きにのぼる浪人たちが、横浜の外国人居留地に放火すると同時に、江戸の各国公使館を襲撃して館員を殺害するという目的で集結している

 

  さらにその数日後には、この情報を伝えた当のヒュースケン自身が暗殺。彼の葬儀のために米国公使館に参集した英仏蘭普各国の代表たちは、ハリスから次のように告げられます。(※普はプロシアの略)

 

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 ヒュースケンの葬儀、『プロイセンの東アジア遠征:1860年から1862年の間』(1864年刊)より

 この絵を見る限り、護衛もいるような気がするが…

 

 日本政府より、もしあくまで遺体につきそって墓地(光淋寺)にゆこうとするならば、われわれじしんの生命も失われるおそれがある旨の警告をうけた。

 

 この警告に対し、誰もが躊躇することなく墓地までゆくことになったのですが、ここで幕府は極めて不誠実な対応をします。墓地までおよそ2キロの道中、護衛の兵士をひとりも出さなかったのです。オールコックいわく、

 

 墓地にいたる一マイル以上の道中は、襲撃をうけやすいがままに放置されていた。周辺には護衛の者はおらず、警戒と保護のための特別な措置も講じられていなかった。

 

 これではまるで「警告したのにそれでも行くというのなら勝手にどうぞ」といわんばかりの極めて不誠実な対応です。本来なら、「命の保証はしかねるものの、それでもというなら、こちらとしてはできる限りの護衛をつけましょう」というのが、この場合、誠意ある対応でしょう。

 

  人命が失われて神妙になっているところに、このような対応をされては、人間、激怒するのも当然です。(思うに、この時の幕府担当者は本当に「切腹もの」です)

 

 皆よほど怒り心頭だったのでしょう。葬儀の翌日には早速、米英仏蘭普5カ国の代表が英国公使館に集まり、対応を協議。

 

 われわれを犠牲に供するに脅迫と殺害をもってするという方法そのものに強硬に抗議する

 

とした上で、米国のハリスを除く4カ国代表が江戸を退去、外国軍艦のいる横浜に引き上げてしまいます。

 

 ハリスがあえて同調しなかったのは、そうしてはテロリストの思うつぼだと考えたからでしょう。

 

 一方のオールコック自身も、冒頭で引用しているように、テロリストの狙いがわかってはいながら、それでも猛抗議せざるをえないほど幕府の不誠実な対応に我慢ができなかったのでしょう。

 

 歴史教科書には載っていない事件ながら、このような不信感の積み重ねが、やがて英国が幕府を見限る一因になっていったように思います。

 

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