グッと身近に来る日本史

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「東禅寺事件」幕府に愛想尽かす英国

 幕末の英国公使、ラザフォード・オールコックの記した『大君の都-幕末日本滞在記』を読むシリーズ6回目。攘夷運動が高まり、外国人の殺害が続いていた幕末日本で、ついに英国公使館を直接襲撃するという東禅寺事件が起きます。ここでオールコックは抜本的な対策を打てずに、攘夷を放置し続ける幕府に愛想を尽かしてしまいます。

 

 

 桜田門外の変後、米国公使館の通訳だったヒュースケンの殺害など外国人に対する公道での攘夷テロが頻発するようになりましたが、ついに公使館を直接襲撃するという事件が起こります。英国公使館が襲われた東禅寺事件です(当時はここに公使館が置かれていました)。

 

 文久元年5月28日(西暦1861年7月5日)深夜、水戸の脱藩浪士14名らが英国公使館を襲撃。襲撃側、公使館員および護衛側の双方に多くの死傷者を出す惨事となりました。

 

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 襲撃側に応戦して負傷した英国人ふたり。『イラストレイテド・ロンドンニュース』掲載画。

 

 事件当初、オールコックは寺の奥で寝ていましたが、異変を聞いてピストルを取りあげたところ、英国人ふたりが相次いで血まみれとなって倒れ込んできたため、彼らを奥へと誘導して、自分はピストルを持ってしばらく身構えていたといいます。

 

 この間、よほどの恐怖と不安があったのでしょう。オールコックは護衛の兵に対する不満をぶちまけています。

 

 まず護衛の者が、そして家をとり巻く一五〇名の連中(護衛)は、だれひとりとしてわれわれを助けにやってこようとはしなかったのだ。

 

 実際には護衛の兵たちは外で襲撃側と応戦していたのでしょうが、少なくともこの間、公使館員が放っておかれたことは確かなようです。(まあこれには、言葉の問題もあって、英国人と護衛する日本の兵の間で意思疎通ができていなかったことが大きかったのだろうと思います)

 

 とはいえ、敵の10倍もの兵がいるのに、ひとりもこっちに来なかったのは何事だという話なのてしょう。

 

 この事件の後、オールコックは次のように考えるようになります。

 

 大君の護衛が大勢いるのに、さまたげることもできなければ阻止することもできずに、このように武装した連中によって公使館が襲撃されて以後の、江戸駐在のイギリス公使の地位は、困難にみちたものであった。

 

  そとてこうも付け足しています。

 

 ひとつのことだけが、明らかであった。それは今後首都において身の安全をはかるには、日本政府を信用することはできないということだった。

 

  もう完全に幕府に愛想尽かしています。

 

 オールコックがここまでの考えに至った背景には、相次ぐ攘夷テロに対して抜本的な対策を打てない幕府に対するいらだちがあったように思います。

 

 たしかに今回の実行犯14名の多くが、幕府の捜索により、捕縛や切腹に追い込まれ、処罰はされました。

 

 しかし、攘夷が繰り返され、しかもうわさを含めて毎度毎度、水戸の脱藩浪人の関与が指摘されていた中にあって、その抜本的な解決策を考えれば、水戸藩の組織としての責任が問われるべき、とオールコックは考えていたふしがあります。

 

 実際、脱藩浪人とは見せかけで、裏では藩主を含む藩上層部の関与があるのではないかとオールコックは疑っていました。

 

 そう考えている人間から見れば、幕府から水戸藩に何らかの警告やペナルティが科せられるべきなのに、事件が起きてから実行犯(脱藩浪人)だけを処罰する対処療法的な幕府の対応への不満が募るのも当然で、それがここで爆発したのでしょう。

 

 このような経緯から、「今度こんな目に遭ったら、幕府に任せず、自分たちで直接、藩の責任を追求してやる」 と思い始めていたところに起きたのが、浪人ではない現役の薩摩藩士が英国人を殺害した生麦事件であり、薩英戦争でした。

 

 事ここに至るには、長い伏線があったのです。