グッと身近に来る日本史

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異常な関心の中、江戸で日米修好通商条約交渉始まる

 『ハリス日本滞在記』を読んで、歴史を考えるシリーズの2回目。今回はハリスが江戸に入った際の庶民の反応から、開国に対する当時の「世論」を見ていくことにします。

 

 

  来日から1年余、開港場だった下田で話を済ませようとしていた幕府に対するハリスのねばり強い交渉の結果、安政4年(1857年)秋になってようやく江戸行きが決まります。

 

 ペリーでも日本に上陸したのは、久里浜や横浜、開港場だけで、江戸へは入っていません。

 

 開国(日米修好通商条約)を迫る外国の使節がいよいよ江戸に入ってくるというのは、当時のビッグニュースとなりました。江戸行きが決まった直後のハリスの日記にはこう記されています。 

 

 私は、私の江戸訪問のニュースが、稲妻のようにこの国に伝わっていることを聞かされる。彼らの言葉によれば、「アメリカ使節の入府の大行列を観るため、江戸へ押しかける人々の数は計り知れないだろう」という。(中略)

 日本人たちの話によると、絵図入りで私のことを書いた刷り物が、無数に頒布されているという。

 

  こうした日本国内の関心が異常に高まる中、ハリスは陸路、下田から江戸へと向かいました。これが結果として日本人に対する大デモンストレーションになります。

 

 一行は星条旗を先頭に350人もの「大名行列」で、おもしろいのは、駕籠を担ぐ人足が着るはっぴの背にまで星条旗が染められていたことです。

 

 とくに多摩川を渡って品川に着いてからはいよいよ江戸ということで隊列を整えたため、江戸市中では1キロ弱もの大行列になったと記録されています。

 

 これに対し、幕府は不測の事態が起きないよう万全の警備体制を敷いていたことがわかっています。

 

 日記には、江戸での宿舎となった九段の蕃書調所(幕府の洋学研究所)に到着後、ハリスに応対していた井上清直(信濃守)からこのように聞かされたとあります。

 

 幕府では私の身に何か異変起きやしないかと、日夜心痛していたこと。人々が、私の入京を見物しようと、ひどく好奇心に駆られていること。そして、もし幕府が最も厳重な取締りを行わなかったなら、数百万(これは信濃守の計算)という人の群れが、私を見ようとして江戸へ殺到したであろうこと。そして終に、群衆の接近を封じて事故を未然に防止するため、前夜から市中の内門を全部閉鎖してしまったこと。私が無事に到着したので、幕府の人たちがみな非常に喜んでいることなどを話した。

 

 ちなみに、当時の江戸の人口は100万人前後とみられるので、井上の試算した数百万という数は、「近郊まで含めて皆が関心を持って見に行きたいと思っている」といった比喩だったと思われます。また、実数としての100万人というレベルは現代でたとえると隅田川の花火大会と同じぐらいの人出になります。

 

 江戸時代の庶民の間では、遠目に大名行列を見物することが娯楽のひとつになっていたと言われていますが、ハリスの場合はそのレベルを超越しており、少なくとも庶民の間では時代が変わるかもしれないという期待感の異常なまでの高まりがあったと言えるでしょう。

 

 ただし、井上が語ったように当日は幕府が厳重な警戒を行ったため、実際の人出は、ハリス自身の計算によると、20万人弱でその多くが警護のための武士でした。

 

 とはいえ、もしもこの時代にテレビがあったなら、ご成婚やマラソンの時のように、ヘリを飛ばして上空から撮影したり、要所に何台ものをカメラを配置するなどの大々的な中継になっていたものと思われます。

 

  幕末を扱った小説やドラマではこの部分は全くと言っていいほど出てきませんが、実際にはそれくらいの歴史的な大イベントでした。このような異様な状況の中で日米交渉は始まったのです。