「質素と正直の黄金時代」から日米修好通商条約へ
今回は、幕末に日米修好通商条約交渉にのぞんだタウンゼント・ハリスが書き残した日記『ハリス日本滞在記』を読みながら、幕末という時代にタイムスリップしていきましょう。
開国前夜の日本を「質素と正直の黄金時代」とみていたハリス。変わりゆく日本社会の行く末を個人的には案じつつ、米全権として日米修好通商条約交渉にのぞんだ
ペリーによる開国から4年後、米国はタウンゼント・ハリスを総領事として日本に派遣、両国は日米修好通商条約を結ぶことになります。
ペリーはまさに軍艦外交で日本の重い扉を無理矢理こじ開けましたが、ハリスは通商を始めとした人の交流を伴う具体的な内容の交渉となったこともあってか、窓口となった幕府にとどまらず、(ハリスから見れば)その後ろにいる様々な階層の意見を垣間見ることになりました。
これまでの日本史では、この交渉は国内の大反対にあって板挟みになった幕府が対応に苦慮、幕末動乱の始まるきっかけになったと説明されてきました。
しかし、ハリスの日記を読んでみると、必ずしも皆が皆、反対というわけではなかったことがわかります。むしろ誰が賛成して、誰が反対していたかを意識して読み解いていけば、事の本質が見えてきます。今回はそのあたり中心に見ていきましょう。
ハリスは日記を遺しており、岩波文庫から上中下の3巻として出版されています(坂田精一訳)。上巻は日本に赴任するまで。中巻では下田に着いて、幕府と江戸出府へ向けた交渉をしていた頃。下巻では江戸滞在中の条約交渉の様子が書かれています。
『ペリー提督日本遠征記』は以前、ご紹介したとおり、ペリー自身の日記をもとにしながらも、艦隊幹部たちからの記録の提出などをもとに歴史家のE.L.ホークスが編纂、最終的にペリーが監修する形でまとめられ、米議会に提出された「公式記録」ですが、こちらはあくまでハリスの私的な日記です。
その分、なにげない日本人との会話や交流、またそこから得た個人的な私感などが書かれているのが特徴と言えます。
さて、 安政4年(1857年)の暮れ、ハリスは下田から江戸へと出発します。陸路を使い、星条旗を先頭に350人もの「大名行列」だったと日記には記されています。
川崎あたりまで来ると、見物人の数がかなりになってきたと記されています。それを見てのハリスの感想です。
彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない-これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。
ハリスはもともと、彼の個人的な生き方や考え方もあるでしょうが、当時の日本人の質素な暮らしぶりに好感を持っていました。
ちなみにハリスは家庭の経済事情から高等教育は受けていませんが、社会に出た後、独力で高い教養を身につけています。こうした生い立ちがあるためか、経済人として成功した後には、ニューヨーク市に無料で学べる高等教育機関の創設に尽力、これが現在のニューヨーク市立大学になっています。政治的には民主党員で、彼を日本総領事に任命したのは、第14代大統領のフランクリン・ピアーズ(民主党)でした。
そんなハリスが下田での滞在中に接した日本人の暮らしぶりについては、具体的にこう述べています。
私は、日本人のように飲食や衣服について、ほんとうに倹約で簡素な人間が、世界のどこにもあることを知らない。宝石は何人にも見うけられない。黄金は主として、彼らの刀剣の飾りに用いられている。(中略)着物の色は黒か灰色である。貴人のものだけが絹布で、その他すべての者の布は木綿である。日本人は至って欲望の少ない国民である。
これにはもちろん、江戸時代を通じて何度か、庶民の贅沢を禁じた奢侈禁止令が出されていた影響もあるでしょう。それにしても、当時の日本人が今とは比べものにならないくらい質素だったことは確かです。
このような日本(人)を開国させて本当にいいのだろうか、といった疑念を頭のすみに置きながらの交渉だったことがわかります。
開国とは、以前からこのブログで触れていますが、日本に産業革命の波が到達するということを意味していました。日本人の側はそのことに気づいていませんでしたが、米国側の人間は当時からそのことをかなり意識していたことが史料からは読み取れます。
産業革命は人類に物質的な豊かさをもたらします。「質素と正直の黄金時代」とは、産業革命前夜の日本をとらえたハリスなりの名言と言えるかもしれません。