グッと身近に来る日本史

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大名は開国のどこに反対していたのか

 『ハリス日本滞在記』を読んで歴史を考えるシリーズの4回目。今回は開国(日米修好通商条約)になぜ大名が反対したのかについて。ハリスの日記を読むと、彼らが具体的に条約のどの部分に反対していたのかがわかります。

 

 

 ハリスは幕府との交渉過程で、次のような論争があったと記しています。

 

 私は又彼らに、条約の第7条では、1ヶ年日本に居住した行状の正しい凡てのアメリカ人のため、日本人と同様に自由に旅行する権利を要求していることに留意を促した。日本委員は、第7条と京都を開く件は、二つとも不可能であること。それらを許容すれば、反乱が必ず起きること。条約の他の多くの提案は極めて困難であるが、必ずしも実行不可能なものではない。しかし、この二件は絶対に不可能であると、私に告げた。

 

 「条約の第7条」とありますが、実際に締結された条約の第7条は開港場とそこから外国人が通行できる範囲についての規定でした。「自由に旅行できる権利」のような文言は一切ないので、ハリスがここで言っているのは、「原案」上でのことだったのでしょう。

 

 実際に現在、原案書が残っているかどうかまでは確認できませんが、少なくとも話の流れから推測するに、条約交渉に当たってはまず米側の要求に基づく「原案」なるものがあって、そこでは「外国人が国内を自由に旅行(通行)する権利」が記載されており、それを見た諸大名は猛反対し、幕府もさすがにこれは無理だと考えていた、ということです。 

 

 逆に、「他の多くの提案は極めて困難であるが、必ずしも実行不可能ではない」とあるように、貿易をはじめとした他の条件については、双方折り合えるとみられていたと考えることができます。つまり「修好通商条約」のうちの「通商」の方は、決定的に困難な問題ではなかったということです。

 

 前回の「実は最初から開国派が多数だった日本」でも触れたとおり、本来、貿易に限れば、財政難から税収を上げるために躍起になっていた藩(大名)にとってもメリットのある話で、実際に琉球貿易をしていた薩摩藩や北方貿易をしていた松前藩はそこからの利益を得ていました。

 

gootjapan.miyatohru.com

 

 となると、問題は「修好」の方ということになります。「修好」とは一般に使われる言葉ではないので、わかりにくいと思いますが、国と国とが仲良くすることといった意味になります。この中に、先ほどの「外国人が国内を自由に通行する権利」が含まれていたと考えることができます。

 

 それにしても、なぜこの「外国人が国内を自由に通行する権利」がそんなに問題になったのでしょうか。当時の日本人(武士階級)はそんなに外国人のことが嫌いだったのでしょうか。

 

 現代に生きる我々にはその点がわかりにくいのですが、その裏に隠されている真実を理解するヒントについても、ハリスの日記には記されていました。次回、その話を詳しく。