グッと身近に来る日本史

読書でタイムトラベラー/時空を超えた世界へと旅立つための書評ブログ

産業革命後のニューヨークから江戸ニッポンへ

 今回は、幕末に日米修好通商条約交渉にのぞんだ米国全権、タウンゼント・ハリスの通訳として活躍したヘンリー・ヒュースケンが書き残した日記『ヒュースケン日本日記』を読みながら、幕末という時代にタイムスリップしていきましょう。

 

 

 ヘンリー・ヒュースケンはもともとオランダ人ですが、20歳そこそこでニューヨークに移住します。その後、米国が日米修好通商条約交渉を幕府と開始するにあたって、オランダ語を話すことのできる人間を探していた米国全権のタウンゼント・ハリスの目にとまり、その通訳として1856年(安政3年)、24歳で来日することになりました。 

 

 それから、1861年(万延元年)に28歳で攘夷志士によって暗殺されるまでの間、上司であるハリス同様、日記をつけていました(実際にはニューヨークを出航した1855年から)。

 

 ヒュースケンはフランス語とオランダ語とで別々に日記をつけていたようですが、それらを合わせた英訳版が1961年に完成、それを青木枝朗氏が和訳したのが『ヒュースケン日本日記』(岩波文庫)となります。

 

 ヒュースケンはハリスの同行通訳ですから、日記の大方は『ハリス日本滞在記』と重複した内容となっています。その点で学術的には、ハリスの日記を補足する史料として重用されています。

 

 一方で、米国全権といった責任を負い、また50歳を超えていたハリスとは異なり、20代半ばのヒュースケンの日記は、若者らしい冒険者的な好奇心が見られるのが特徴です。

 

 たとえば、ニューヨークを出航する際には、次のような記述が見られます。

 

 ついに船は外洋に出た。ある時は穏やかに、ある時は激しく泡だち、またある時は眠るがごとく、太古からかたときも休まず青い波をうねらせてきたこの大洋が、私をはるかな故国(オランダ)から、まだかすかに見えているこの国まで運んできた。マストが林のように立ち並び、大煙突から吹きあげる煙と蒸気に包まれたこのニューヨークで、私はおよそ三年を過ごした。世界的規模の貿易と、無比の工業力を象徴するそれらのものは、地平線の彼方に消え去った。 

 

 これを読むと、当時のニューヨークの姿が目に浮かびます。英国から始まった産業革命によって工業化が進み、貿易が飛躍的に伸びている様が伝わってきます。「大煙突から吹きあげる煙と蒸気に包まれた」という形容からは、蒸気機関がその革命の源泉であることがわかります。

 

 そういった国から江戸ニッポンを見れば、単に洋の東西の文化の違いという以上に、未だ産業革命の波に洗われていない国といったイメージが強かったのも当然で、ペリーにしても、ハリスにしても、この風景が頭の中にあって日本と交渉をしていたということを踏まえておいた方がいいでしょう。

 

 また、おもしろいのは幽霊船についての記述です。ニューヨークを出航して2日目のことでした。

 

 今朝、幽霊船に出あった。外板が舷川からはずれて、骸骨のようになった船が、こちらに接近してきた。甲板には人影ひとつ見えなかった。物音も聞こえず、帆綱の間を吹き抜ける風の音と、無人の船橋にうち寄せ、塩辛い滝となって海へもどっていく波の音が聞こえるだけである。船橋を洗うその波は、老後の杖と頼む人、若き日の恋人の姿を船の中に尋ねもとめる人妻や、孤児や、母親たちの流す涙のようであった。

 

 これは難破した帆船だと思われます。産業革命によって、蒸気船が登場したとはいえ、まだまだ帆船も現役で航行していた時代のこと。当時は帆船が難破しても救助されることなく、そのまま放置されていたのでしょう。

 

 帆船や幽霊船と聞くと、カリブの海賊たちが思い浮かびますが、彼らが活躍した頃の残影をいまだ引きずっていた時代だったのです。