グッと身近に来る日本史

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オランダの登場で乱戦となった開国交渉

 幕末に日米修好通商条約交渉の通訳として活躍したヘンリー・ヒュースケンの日記『ヒュースケン日本日記』シリーズの2回目。今回はその断片的な記述から、日米に蘭を加えて虚々実々の外交交渉が行われていた事実をあぶり出していきます。

 

 

 以前、本ブログで、米国全権だったタウンゼント・ハリスの日記について、日米修好通商条約の調印直前で記述が途絶えているのは、歴史上の大きな謎だとご説明しました。

 

gootjapan.miyatohru.com

 

 その謎が、ヒュースケンの日記を読んでいて、見事に解けました。実はヒュースケンの日記も、条約調印目前で記述が途絶えていたのです。

 

 日米修好通商条約が調印されたのは、西暦1858年7月29日のことでした。これに対し、ハリスの日記は6月9日付、ヒュースケンは前日の6月8日付で、双方ともパタリと日記が途切れます。(ただ、ヒュースケンは何を思ったのか、2年半後の1861年元旦に日記を再開しましたが、その直後、攘夷志士に暗殺されました)

 

 ふたりの日記がほぼ同時期に途絶えたというのは、明らかにふたり申し合わせの上と考えていいでしょう。この場合は、どう見ても上司であるハリスの意志によるということになります。

 

 では、なぜハリスは、ヒュースケンにも指示を出して、この時期から米側の日記(記録)を止めたのか。

 

 その謎に迫るべく、途絶える直前のヒュースケンの日記を注意深く読み込んでいくと、頻繁に登場するひとりの人物の名前が目にとまります。

 

 彼の名は、ドンケル・クルチウス。日本史上では全く無名の存在だと思いますが、長崎のオランダ商館長。当時の駐日オランダ代表と言っていいでしょう。

 

 その彼が、この頃、江戸に来ていたのです。ヒュースケンの日記(1858年4月23日)には次のように記述があります。条約調印3ヶ月前のことです。

 

 夜、ドンケル・クルチウス氏が秘書のド・グレフ・ファン・ポルスブルック氏を伴って江戸に到着。この人はドンケル・クルチウス氏の名前で私に手紙をよこして、彼の到着をハリス氏に伝えてほしいといってきた。

 

 その後も、ヒュースケンの日記にはクルチウスの名は頻繁に登場しており、ハリスとも引き合わせた旨が書かれています。(ただし、不思議なことにハリスの日記にはクルチウスの名は出てきません)

 

 そして、ヒュースケンの日記が途絶えることになる最後の日(6月8日)には、決定的となる事実が書かれていました。

 

 私はドンケル(・クルチウス)氏のところにいた。彼は日本人と会談した。日本側はわれわれの条約の写しをドンケル氏に見せて、それと同じ権益を彼に与えようとした。ドンケル氏は下関と浦賀に(港)、江戸に外交官の官舎、鋳貨の輸出とその他の小さな権益を望むだけにして、ハリス氏よりさきに条約を結ぼうとはかった。彼はアメリカの条約が調印されると同時に、アメリカの条約と同じ権益を獲得することになる。しかし、彼は日本人から聞いたことを私に語らなかった。

 

 つまり、幕府はオランダに、日米間で交渉中だった修好通商条約案を見せていて、しかも、それを知ったクルチウス(オランダ側)は、それより条件の緩い条約を先に結んで、日本との通商条約を初めて結んだ国という栄誉を得ようとしていたのです。

 

 この事実を知ったヒュースケンは当然、上司であるハリスに急報したはずです。ハリスにしてみれば、大きな衝撃だったでしょう。

 

 「何が何でもオランダより先に条約に調印する。そのためには手段を選ばない。これからは何でもありだ」。そう考えたハリスが後世に遺ってしまう記録(日記)をつけるのをここで止めた。と考えれば、すべての謎は解けます。

 

 ということで、ここから先の記録は遺っていませんが、裏では日米蘭の3カ国間で虚々実々の駆け引きが行われたと思われます。おそらくは、史実としては遺せないほど猛烈な米側の巻き返しがあって、ついに日米修好通商条約が調印されます。

 

 それにしても、最後の1日の日記を遺してくれたヒュースケンには感謝です。この部分の記述がなければ、後世には何が起きていたのか、さっぱりわからなかったでしょう。

 

 わずか数行の記述ですが、「歴史に残る」ならぬ「歴史を遺してくれた」貴重な日記だと思います。