グッと身近に来る日本史

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「岩倉使節団」ロンドンで欧米追う光明見出す

 ロンドンで日本との40年の時差を知った岩倉使節団。この差を今後どう埋めていけばいいのか。『特命全権大使米欧回覧日記』は考察していきます。その答えもやはりロンドンにありました。

 

 

 産業革命が起こり、それによって世界の覇権を握ることになったイギリスですが、それがすべてではないとも実記は分析しています。

 

一八三〇年代に汽船や鉄道の利用がはじまったことが、欧州の貿易を一変させる機運を生んだ。まず英国人がこのことに留意し、英国政府が人々の強い要望に応えて、工業技術を盛んにするための教育を興そうという議論をはじめたのは、いまからわずか三四年前である。

 

  結果として、この「工業技術を盛んにするための教育を興そうという議論」が実を結んだと実記はみます。具体的には、1851年にロンドンで開催された万国博覧会です。

 

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1851年にロンドンで開催された万国博覧会。中央の施設は水晶宮(クリスタル・パレス)と呼ばれた

 

 この博覧会は、ヴィクトリア女王の夫、アルバート公が主導して開催された、世界最初の国際博覧会とされています。現在でも博覧会は各地で開催されていますが、内容を見ると、当時は工業振興の側面が強く、産業見本市のようでした。

 

この時欧州各国から出展した工業製品の中で、一人フランス製品のみが輝くような圧倒的声価を受けた。英国のものは機械生産による雑ぱくな製品が多く、デザインやアイディアの点では、小国と侮っていたベルギーやスイスのものの方がむしろ優秀で、英国製品は顔色がなかった。 

 

 英国人はこの博覧会を見て自国の製品の欠点がどこにあるかをはじめて知り、いろいろ研究して、フランス製品を模倣する悪弊をやめて、自国独自のデザインのありようを研鑽した結果、一八五五年、フランスで開催された第二回万国博覧会においては、おおいに面目が改まり、以来フランスからの工業製品輸入量も減少するようになった。

 

 産業革命が起きたからといって、最初からイギリス産品に競争力があったわけではなく、むしろその後、各国産品の特徴を知り、切磋琢磨したことによる部分が大きいというわけです。

 

 これは産業革命に追って起きた交通革命によって、人と物の移動が頻繁になり、お互いをよく知るようになって、国際的な競争が始まったとも言えるでしょう。

 

 英国が率先して自国に特有な技術とデザインを研究し、フランスの製品とは異なる価値を発揮したことから、次第に各国も独自の味わいを追求するようになった。今日ではヨーロッパの工業製品は各国がそれぞれの特徴を発揮し、さまざまな花が咲き誇り、かぐわしい香りを発しているような状態になっている。

 

 ここに実記は日本の目指すべき方向を見出します。欧米を手本としながらも日本なりの良さを生かした製品づくりを模索する、というものです。

 

 そのための施策が、ここに登場している博覧会の開催でした。「工業技術を盛んにするための教育を興そう」としたのです。

 

 明治政府がまず着手したのが鉄道と通信の敷設であることはよく認識されています。「文明開化は鉄道と通信から」でした。

 

 ただ、もうひとつ力を入れたことがありました。勧業博覧会の開催、あるいは全国各地での勧業展示施設の設置です。これは現代人があまり気づいていないことのように思いますが、実記ではかなり詳しい記述が見られます。私自身も、言われて見れば、戦前にはそういうものをよくやっていたし、施設もあったなあと、改めて気づかされた次第です。

 

 欧米の技術力に圧倒されながらも、ロンドンで見出した一筋の光明が、以後、国内の施策に反映されていったということが、実記を読むとよくわかります。