「黒船来航」の本質を『日本1852』から改めて考える
『日本1852 ペリー遠征計画の基礎資料』の原書は、1852年にニューヨークで発行されました。米国が威信をかけて実施しようとしていた日本の開国プロジェクト(ペリー提督の遠征)に先だって、米国民に日本のことを紹介したものです。
著者のチャールズ・マックファーレンは英国の歴史家で、日本に来たことはありませんでしたが、来日経験を持つ知日派文化人への聞き取りや文献を読み込む形で、本書をまとめています。
2次情報となる分、少し差し引いて見なければなりませんが、これを翻訳した日本近現代史研究家の渡辺惣樹氏は、
読者には、これまで学んだ日本史をいったん引き出しにしまって、日本のことなどまるで知らなかったペリー提督のつもりで本書を読まれることをお勧めします。
とまえがきで述べています。
さて、私がこの本を読んでまずおもしろいと思ったのは、米大統領から幕府に送られた親書です。
ここでの親書とはペリー来航の際のものではなく、1846年にジェームズ・ビドルが江戸に来航した際の話で、大統領とは第11代のジェームズ・ポーク(任期:1845~1849)になります。
ちなみに、このポークの時代、米国はテキサス州の併合のほか、メキシコからカリフォルニアなど米大陸西部を得てほぼ現在の形となり、太平洋岸に進出してきます。
多くのアメリカ船が毎年、いや毎週といってよいほどに航行し、支那とカリフォルニアを結んでいる。こうした船舶は貴国の近海を通過しており、ときには時化(しけ)に遭遇し、貴国沿岸で遭難する危険を抱えている。こうした場合、予は貴国の親愛なる厚情で、遭難した者の生命と財産を保護していただきたいと望むものである。(中略)
予が望むのは純粋に交易のみであって、それ以上のことは全く考えていない。貴国には石炭が豊富だと聞いている。これこそがカリフォルニアと支那を結ぶ船舶が最も必要としているものである。予は日本の港の一つが開港され、そこで必要なときにはいつでも石炭を購入できるように望んでいる
私が昔、習った日本史では、たしか米国の開国要求は、日本近海で遭難することも多かった捕鯨船の寄港基地を確保したかったため、ということだったと覚えていますが、個人的には当時からピンと来ませんでした。
実際にそういう要求を第一にしていることは確かなのですが、近代的な民主国家が自国民の生命の安全と財産の保全を第一に掲げるというのは、いつの時代も当然のことであって、何か事の本質ではないような気がしていました。
なんでそうなったのかを考えるに、おそらくこれまでの日本史ではペリー来航の際の米第13代大統領、ミラード・フィルモアの親書をベースに解釈していたからだと思われます。
フィルモアの親書はポークよりも具体的な要求が前面に出る一方で、米国の真の狙いがどこにあるかはいまひとつよくわかりません。
しかし、こちらの大統領親書(ポーク親書)を読めば、狙いがどこにあるか感じていただけると思います。当時、太平洋に進出してきたばかりの米国が本当に狙っていたのは、支那との貿易(=太平洋航路の確保)だったとすれば、なるほどと思えてきます。
ちょっとした文章の書きぶりの差なのですが、これが後世に伝わる「歴史」を変えてしまったことになります。
次回、米国側の狙いについて、さらに詳しく見ていきましょう。