グッと身近に来る日本史

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歴史情報論-武士はいつ武士がなくなると思ったか

 前回、ご説明した「歴史情報論」について、ひとつ興味深い話をしましょう。それは、明治維新の前後、武士はいつ武士がなくなると思ったか、という疑問です。

 

 この話はこれまでほとんど問題とされてこなかったように思います。そもそも、誰もそんなことは思いもしなかったでしょう。

 

 たまたま考えられたにしても、せいぜい維新後。明治3~4年にかけて、廃藩置県、四民平等といった具体的な武士階級の解体的施策が出た頃。あるいは秩禄処分から不平士族の乱が続いた明治10年あたり、つまり旧武士階級の不満が顕在化した頃の話ぐらいにしか思われてこなかったでしょう。

 

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西南戦争時の錦絵-しかし、武士階級の中には維新前から武士がなくなるという見方が広まっていた

 

 しかし、歴史情報論の観点から史料を読み込んでいくと、開国直後から一部で先読みがはじまり、維新前にはすでに武士階級の間で武士がなくなるかもしれないという見方が広まっていたという衝撃的な事実が見えてきました。

 

 まず、誰が最初にそう思ったか、という疑問ですが、これは具体的な開国交渉となった日米修好通商条約の幕府側交渉委員たちだったと見られます。彼らは幕府の中でもエリートコースを歩んできた俊才たち。相当先読みができたのでしょう。

 

 具体的には、この時の交渉委員の中でもとくに中心的な存在だった井上清直、岩瀬忠震(ただなり)です。彼らは開国の具体的な交渉をしていく過程で、幕藩体制の限界を米国側全権のタウンゼント・ハリスに漏らしており、いずれ幕府と外様藩との間で大きな衝突が起きると、しっかり時代の先読みができていました。(詳しくは以下のページをご覧ください)

 

gootjapan.miyatohru.com

 

 彼らが具体的に武士という身分の先行きに言及したという事実は確認できませんが、幕藩体制の崩壊を予感していたことは事実で、また、ハリスから米国社会についても学んでおり、武士階級の先行きにも悲観的だったとみられます

 

 これが、幕末も最後の最後、大政奉還直後の段階では、どうだったか。

 

 この時の陸奥20万石、盛岡藩の江戸藩邸の様子についての証言が残っています。江戸詰の家老から京都の情勢の説明を受けた藩士たちの間には、激しい「動揺」が広がります。

 

 この場合の「動揺」とは、単に中央政界の混乱に限った話ではなくて、「幕府がなくなる、ということは藩はどうなるの?、武士はどうなるの?」という形で動揺の連鎖が起きており、最終的には自分たちはどうなるの、という極めて切実な身の振り方の問題になっていました。

 

 これを読んでいると、ちょうど現代で言えば、倒産のうわさが流れはじめた会社内部のようなもので、藩士同士、「どうしよう、どうしよう」と言いながら、再就職への不安を話し合っていたことがわかります。「時代は変われど、人間社会は変わらないんだなあ」という感じです。(詳しくは以下のページへ)

 

gootjapan.miyatohru.com

 

 中には、「もう武士はなくなるそうだ」とはっきり口にする藩士もいました。一般の藩士たちの普通の会話の中でのことですから、すでに武士階級の間にかなり浸透していた見方だったでしょう。盛岡藩だけの特別な話だったとは思えません。

 

 繰り返しますが、これは大政奉還直後のことで、これから戊辰戦争が始まるという段階での話です。この段階で、武士階級の間に「武士がなくなるかもしれない」という不安が広がっていたとなると、大方の藩、あるいは大方の幕臣たちが戊辰戦争時に日和見を決め込んだというのもわかるような気がします。(もちろん、その理由の第一には財政難で戦費の調達すらできなかったこともあったでしょう)

 

 戦(いくさ)というものは、守るべきものがあればこそ、命をかけてできるもので、「どうせ武士はなくなるんでしょ」と思っていて、できるものではありません。

 

 逆に、薩摩藩などはどうだったのでしょう。戊辰戦争をしかけながら、後になって不平士族の乱(西南戦争)を起こしているところを見れば、少なくとも一般藩士レベルにはこうした見方が伝わっていなかったのではないかと思われます。これはこれで、また疑問です。

 

 ここでは、幕末の最初と最後の段階の事例をご紹介しましたが、途中、どの段階でこのような見方が広まり、社会を変えていったか。歴史情報論のこのような切り口で、史料を読み込んでいけば、もうこれだけで幕末史は塗り変わっていくと思います。