江戸中期、密かに始まった通商交渉
江戸時代の初め、外国だった今の北海道(蝦夷地)。そこにひょんなことから日本領ができたことについて、前回、書きました。
それから1世紀後。18世紀後半になると、蝦夷地は再び新たな局面を迎えます。ロシアの極東進出と南下です。今回はロシアの登場による幕府や松前藩の対応について見ていきましょう。
極東地域へと進出してきたロシアは、清との抗争が続いていましたが、清の抵抗も強く、1689年にネルチンスク条約を結び、アムール川を挟んで同国との間で国境を確定します。
これにより大陸での基本的な大国の棲み分けは確定したのですが、引き続き、ロシアはカムチャッカ半島の先にある千島列島や、間宮海峡を挟んだ樺太島(サハリン)に進出、しばしば原住民であるアイヌと遭遇することになります。これがやがてアイヌとの交易を行う松前藩の耳にも入り、いわゆる「赤蝦夷」情報が日本側にもたらされます。
蝦夷とは当時、日本側がアイヌのことをそう呼んでいたのですが、「明らかにアイヌとは違う、顔の赤い、あるいは赤い服を着た外国人がいる」ということで赤蝦夷と呼ばれました。
当時の松前藩の領地はあくまで渡島半島南部の松前一帯にあった和人地であって、蝦夷地全体を面として支配していたわけではありませんでしたが、幕府に認められたアイヌとの独占交易権をよりどころとして、広く各地に公的な交易拠点(商場、場所とも)を展開していました。
蝦夷地と大陸の間にある、樺太と千島列島を伝ってロシア人が南下してきた。この地域では主にアイヌによる「オホーツク交易圏」が形成され、松前藩と交易を行っていた(国土地理院地図より作成)
18世紀も後半になると、樺太や千島列島を舞台にアイヌとロシア人との間で交易が行われ、時に抗争が起きるようになります。
そこでロシア側も正式な通商関係を結ぼうということになったのでしょう。1772年、ロシアのイルクーツク県知事は、アイヌとの友好関係、そして日本との通商関係樹立を目的に使節の派遣を決定。1778年には同県の商業協同組合長だったシャバーリンがノッカマブ沖(現在の根室半島)に到着。松前藩の役人と対面し、通商交渉を求めます。
この時、同藩の役人は「自分の一存では決められないので、藩主と相談の上、1年後に回答する」としたため、翌79年、シャバーリンは再来日。今度は根室半島を通り越してアッケシのツクシコイ(現在の厚岸町筑紫恋)までやってきます。
ここでの交渉となったわけですが、松前藩としては幕府の目があります。その定めに従って、「異国との交易は長崎のみとなっている。ここへはもう来ないように」と拒絶回答。ただ、「千島列島でアイヌと交易する分についてはかまわない」とも伝えたとされます。
ここで興味深いのは、松前藩はこの時点で蝦夷地全体を支配していたわけではないのですが、なんとなくでも「蝦夷地は日本のもの(=だから日本の法令が適用される)」である一方、「千島列島は外国(=だからアイヌと交易してもかまわない)」といった意識を持っていたと思われることです。
江戸時代のはじめには、蝦夷地自体が外国と考えられていたものが、江戸中期にはロシアの登場がきっかけとなって、蝦夷地は日本(あるいは属国)との意識が芽生え始めていたことがわかります。
さて、このロシアとの通商交渉について、当初、松前藩は幕府に報告しませんでした。「そもそも拒絶したのだし、後から下手に報告しても面倒なことになるだけだ」と考えたようです。
ところが、意外な形でこの件は幕府の耳に入り、蝦夷地はまた新たな局面を迎えることになるのですが、それについては次回!。
【江戸時代の幕府外交-「松前藩と蝦夷地」シリーズ】
江戸中期、密かに始まった通商交渉
以上