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型破りな『松前藩』の扱いに困っていた?江戸幕府

 江戸時代、米が獲れなかった蝦夷地にあった松前藩から日本のかたちを考えるシリーズ。2回目は、外国と考えられていた当時の蝦夷地(今の北海道)が、ひょんなことから、次第に日本に組み込まれていく過程を見ていくことにします。

 

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明治維新で北海道が誕生する前、江戸時代270年間かけて蝦夷地は徐々に日本になった

 

 

 江戸時代の初め、松前藩が将軍からの所領安堵がなかったことは前回、触れた通りです。では、松前藩が江戸幕府からどのような扱いを受けていたのかがギモンになります。実際、江戸幕府もその扱いには困っていたようです。

 

 江戸幕府開府当初、松前藩は「賓客」扱いとされました。賓客とは客分といった意味です。居候(いそうろう)のようなもので、「正規の大名ではないものの、幕府の傘下にはいる」といった身分の不明瞭な存在でした。前回、述べたように、「外国である蝦夷地にある日本の公的な在外商館」だとみなせば、妥当なところとも言えます。

 

 当時の幕閣も松前藩の扱いには困って、「とりあえず、どうとでもとれる客分にしとけ」といった感じだったのではないかと推測されます。

 

 それが1600年代も中頃を過ぎると「交替寄合」になります。交替寄合とは、有力な旗本あるいは由緒ある武家が、参勤交代を認められ、大名に準ずる扱いを受けるというものです。賓客よりも、多少、身分が明瞭になって、ランクアップした感じがします。

 

 このあたりの事情を見ていきましょう。

 

 慶長18年(1613年)、幕府は日本全国に対して禁教令を布告、キリスト教の布教禁止、信徒の弾圧を開始します。このことで、国内にいた宣教師や信徒は弾圧を逃れ、明確な幕府の管轄地ではない一方、日本人(和人)も住んでいた蝦夷地に、かなり移住してきたとされます。

 

 当時の松前藩は、「蝦夷地は日本ではなく、幕府の禁教令は適用されない」というスタンスを取っていました。

 

 元和4年(1618年)、松前藩をイエスズ会の宣教師が訪れ、2代藩主、松前公広に謁見した時のことです。ここで公広は、

 

「パードレ(神父)が松前に見えることは差し支えない。なぜなら天下がパードレを日本から追放したけれども、松前は日本ではないのです」

 

と述べたとされています。

 

 このため、松前近辺には多くのキリスト教徒が逃れてきたわけですが、そうなると、今度は幕府もこれを見過ごすことができなくなり、松前藩をきちんと幕藩体制に組み込む必要に迫られます。そこで松前藩の領地を明確にさせ、その範囲内では幕府の法令が適用されるようにします。

 

 米が獲れないのだからいいだろうと放って置いた領地の線引きを、別の意味から確定させなければならなくなったのです。

 

 寛永10年(1633年)、幕府は蝦夷地に役人を派遣、これを機に松前藩では独自に松前一帯(渡島半島南部)を「和人地」として線引き、外国だった蝦夷地の中に「日本領」ができます。そして、実際に島原の乱(1637~38年)の後には、それまでキリスト教に寛容だった松前藩もキリシタン弾圧に転じています。

 

 当時の幕府や松前藩に、「米が獲れない土地を押さえる」といった発想はなく、領土的な野心はほとんどなかったと思われますが、全くの成り行きから、蝦夷地の日本化が進み始めたと言えます。

 

【江戸時代の幕府外交-「松前藩と蝦夷地」シリーズ】

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以上