グッと身近に来る日本史

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すぐに始まった日米通貨摩擦

 日米和親条約が結ばれると、すぐに通貨問題が出てきたことが、『ペリー提督日本遠征記』を読むとわかります。

 

 

 日米の為替レートが正式に定まるのは、日米和親条約から4年後、日米修好通商条約の際になりますが、今回はその前哨戦となる日米通貨摩擦の始まりに関する秘話をご紹介しましょう。

 

 下田滞在中のペリーは、幕府の厳重過ぎる警戒ぶりにいらだっていました。

 

 提督自身、ある日士官数人を伴って街を歩いているとき、たえず二人の日本役人が先行していることに気づいた。役人は出会う住民をかたっぱしから家に追い戻して戸を閉めさせた。商人が外国人に品物を売ることが禁じられているのは明らかで、どんな些細な品物を買おうとしても、まったく手に入れることができなかった。

 

 ペリーはこれを日本側の「いやがらせ」と感じていたようで、堪忍袋の緒が切れる形で猛抗議をします。

 

 (この猛抗議の後、※筆者注)アメリカ人たちが商店を頻繁に訪れ、購入品を選ぶようになると、臨時の通貨を定める必要性がでてきた。日本の貨幣は厳重な法律により流通を統制されていて、外国人との取り引きには使用できなかったので、下田の商人は合衆国の貨幣を受け取ることになった。合衆国貨幣の価値は日本人になじみ深い中国の銅銭と比較して評価され、中国銅銭1600個を1ドル銀貨と等価とした。日本人はただちにこれに同意し、まもなく他の通商国民と同じように熱心にアメリカ貨幣を集めだした。

 

 これが記録に残る日米為替レートの始まりということになります。人の往来が始まれば、わずかでもお金の交換が始まるのは当然で、政府間の正式な交渉など待ってはいられなかったということでしょう。

 

  追ってこの後、嘉永7年(1854年)6月に日米和親条約に関わる付加条項(下田条約)が決められましたが、さらにそれに付随する決定事項として「当面の為替相場」が決められます。

 

 ただこれは、双方納得してというレベルのものではなく、あくまで暫定で、正式な合意は日米修好通商条約でのハリスとの交渉時まで持ち越されます。

 

 双方、専門の委員を立てて、かなり突っ込んだ議論をしたにもかかわらず、交渉があくまで暫定で終わったのは、幕府側がドルについてあくまで地金の価値として交換するよう求めたのに対し、米側は幕府が鋳造する貨幣(大判、小判)の純度を疑っていたことがありました。

 

 為替レートの決定は、国益の最たるものと言えます。今も昔も非常に重要な問題だったことがわかります。

 

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実際にペリーが歩いたとされる下田の「ペリーロード」。この地で最初の日米為替レートが決まる(pohto by PAKUTASO)