グッと身近に来る日本史

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幕末の分水嶺となった「生麦事件」

 幕末の英国公使、ラザフォード・オールコックの記した『大君の都-幕末日本滞在記』を読むシリーズ最終回。東禅寺事件後、オールコックは幕府に最後通牒を突きつけます。その後の幕府の対応が重大な分かれ道となったのですが、実際に起きたのは生麦事件でした。

 

 

 英国公使館が攘夷志士に襲撃された東禅寺事件(当時はここに公使館が置かれていました)後、オールコックは幕府に次のような警告書を送ります。

 

 政府は、国際法によって責任を負っている。世界の目から見て、政府は秩序を維持し、生命・財産を保護する法を尊重する責任がある。もしこれに欠けるところがあれば政府としての必須の性格をもはや有していないことになり、諸外国の尊敬をうける資格を失うことになる。諸外国が相手とすることのできる政府は、実質的に支配している政府のみであって、名目だけの政府ではないのである。

 

 オールコックはさらに続けます。

 

 まったく以上のことが、政府として永続するための重要な要件であり、これを忘れるならば、かならず即座に危険が生じるであろう。それゆえに日本政府は、そのような無秩序な状態においては、みずからの存在すら脅かされているのである。それゆえに本官は、その政府自体の利益のために、現在の情勢にたいして、政府みずからのもっと真剣な注意を喚起せざるをえない。

 

  前回、ご紹介した通り、東禅寺事件でもうオールコックは幕府に完全に愛想を尽かしていたのですが、それでもここで、「最後通牒」を突きつけ、幕府の猛省を促したのでしょう。

 

gootjapan.miyatohru.com

 

 ここで幕府が死に物狂いになって、攘夷活動を抑え込んでいれば、まだ英国の信認をつなぎ止めることができたのではないかと思います。幕府は崖っぷちのところにいました。

 

 こうした状況下では次に来る「事件」が大きな意味を持っていました。

 

 はたして。実際に起きたのは、現在の神奈川県横浜市生麦付近で、薩摩藩士が大名行列の中に侵入した英国人を殺害した生麦事件でした。東禅寺事件から1年あまり後の文久2年8月21日(西暦1862年9月14日)のことでした。

 

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 事件当時の生麦村 

 

 しかもこの1年の間には、老中の安藤信正が水戸浪士らに襲われた坂下門外の変、東禅寺の護衛に当たっていた松本藩士が英国人を殺害した第2次東禅寺事件など、攘夷の動きが収まる気配は全くありませんでした。(※英国公使館が襲われた東禅寺事件は実は2回ありました。本ブログでは2回目のみ「第2次」と表記することにします)

 

 このような状況が続いて、ついに英国は幕府を見限ります。英国は幕府を飛び越えて薩摩藩と直接談判を始めて責任を追及、この結果、薩英戦争が始まります。

 

 日本史の教科書ではこのあたりがさらっと流されています。私自身も、これまであまり深く認識していなかったのですが、『大君の都』を読めば、ここが幕末史の大きな転換点になったことに気づかされます。

 

 英国はこれまで幕府を一国を代表する政府として信頼し、何があっても苦情は幕府に言ってきました。英国が地方政府である藩と直接接触するという機会はこの本を読む限り、それまで一度もありませんでした。米国公使のハリスの本を読んでもそうです。

 

 つまり、国と国との外交なので、日本を代表して交渉する窓口は幕府であるといったスタンスをとってきたのです。ところがこれ以降、英国は幕府を飛び越えて、薩摩藩や長州藩といった地方政府と平気で直接交渉するようになり、彼らがやがて結集して倒幕勢力となっていきます。

 

 これはまさに、ここで英国が幕府を見限り、日本を代表する政府だとは見なさなくなったということを意味しています。

 

 別の言い方をすれば、オールコックから最後通牒を突きつけられて崖っぷちにあった幕府は、薩摩藩に最後の一押しをされて政権から転落した、ということにもなります。 

 

 こう考えれば、生麦事件は幕末史の分水嶺でした。ペリー来航から9年余、王政復古の大号令まで5年余。時間軸で見て後ろの方が近いということは、ここから急速に歴史が回転していくということです。

 

 これ以降、当時の超大国、英国の信任を失った幕府は衰退の一途をたどることになり、日本は新しい政府のあり方を模索しつつ明治維新へと向かっていくことになります。攘夷の極みから、維新への胎動が始まったのです。