グッと身近に来る日本史

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歴史情報論とは何か-歴史の中の「戦場の霧」

 私はこのブログの中で、しばしば「歴史情報論」というタグを付けてきました。皆さんの中には何のことやらという方も少なくないでしょう(あるいは全く気がついていない、笑)。そこで、ここで改めて、私の考える「歴史情報論」とは何かをご説明しておきましょう。

 

 もしかしたらアカデミックの世界でも、すでにこのような言葉が使われているかもしれません。それと同じかもしれませんし、違うかもしれませんが、ここで説明するのはあくまで私自身、史料を読み込んでいく中から生まれた個人的な問題意識に基づくものです。

 

 さて。軍事の世界には、「戦場の霧」という言葉があります。戦場において、現場の指揮官はすべての状況を把握して判断を下しているわけではない、といった考え方です。

 

 後世の歴史家がすべての状況を把握した上で、「なんでこの人はこんな判断を下したのだろう」と指揮官を批判したところで、それはあくまで後世になってすべての状況を把握しているからこその結果論に過ぎません。現場にいる指揮官は、限られた情報をもとに即座に判断を下して、対応していかなくてはならないのです。

 

 歴史の世界、とくに近代マスメディアが登場する以前の社会においては、これと同じ事が言えると思います。

 

 正確な情報が瞬時に国民全体に伝わっていたわけではなく、多分に誤解を伴った不確かな情報がもやーっと時間をかけながら伝わっていたはずで、当時を生きた人々はそうした情報をもとに判断をして、生きていかなくてはならなかったと思います。

 

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近代マスメディアがなかった時代。人々は霧の中を手探りで進んでいたようなもの(photo by PAKUTASO)

 

 たとえば、江戸城の真ん前で幕府の大老、井伊直弼が暗殺された桜田門外の変。

 

 今であれば、1時間後にはテレビでニュース速報が流れ、2時間後には現場から中継が始まり、翌日の新聞では事の顛末が詳細に伝えられるでしょう。また、その日のうちに官房長官にあたる役職の人物が、記者会見を開いて大老の容体や逃走した犯人の情報を公式に説明。国民は瞬時にほぼ正確な状況を把握できるはずです。

 

 しかし、当時はもちろんそんなことはありません。時の英国公使、ラザフォード・オールコックは、この時の状況を『大君の都-幕末日本滞在記』に記しています。それによると、事件当日の第一報としては、大老の生死すら確認できず、その後しばらく幕府からは大老の容体は快方に向かっている、と説明を受けていたといいます。(詳しくは以下のページに)

 

gootjapan.miyatohru.com

 

 しかも、オールコックはその後、公使館独自に情報収集した結果として、事件の背後には水戸藩の先代藩主、徳川斉昭がいて、その手の者が大老を暗殺したと見ていました。(史実では、犯人は主に水戸の脱藩浪人で、斉昭が直接指示したわけではない、ということになっている)

 

 私はなにもここで、オールコックの情勢分析が悪いと言うつもりは全くありません。言いたいのは、当時はこのような形で、情報が伝わっていたというひとつの事実です。

 

 つまり、多分に誤解を伴った不確かな情報がもやーっと時間をかけながら伝わっており、当時を生きた人々はそうした情報をもとに判断をして、生きていかなくてはならなかったということです。しかも、それをもとに政局が動いていたのです。

 

 逆にこうした環境下であっても、的確な情報をいち早くつかんで天下を取った人間もいます。本能寺の変後の豊臣秀吉です。この時は、信長を討った光秀が毛利氏にあてた密書が秀吉の手に渡ったことから、他の織田方の諸将を差し置いて、いち早くとって返して光秀を討ち取ることができたと言われています。

 

 このように、どのような情報が、どのようにして流れていたか--。従来の歴史は史実偏重で、このあたりを軽視していたのではないかと思います。後世から見て、これは誤った情報だからということで、はじめから「ネグってきた」話も多いと思います。

 

 しかし、誤報や誤解であっても、それによって社会が動いていた以上、ここを軽視しては、当時の実情に迫れません。

 

 軍事の領域で当たり前のように語られている「戦場の霧」の概念を、歴史の世界でも導入すべきだと思うのです