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サトウの見た「王政復古の大号令」前後の徳川慶喜

 幕末の英外交官、アーネスト・サトウは幕府要人から各藩の志士まで多くの人物を見てきましたが、中でも、最後の将軍、徳川慶喜には、特別な感慨を持っていたようです。彼の回顧録『一外交官の見た明治維新』から、サトウが見た王政復古の大号令前後の徳川慶喜の姿を抜き出してみます。

 

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1867年(慶応3年)、大阪城で諸外国公使と謁見した頃の徳川慶喜

 

 1867年(慶応3年)4月、徳川慶喜は大阪城で諸外国公使と相次いで謁見しました。この年のはじめに将軍となった慶喜は、孝明天皇の崩御を受けて、第2次長州征伐の取りやめを決定。事実上の幕府の敗戦となり、その権威が大きく揺らぐ中で、挽回を図る目的から今回の各国公使との謁見が行われたと見られています。

 

 私たちは、こうして、将軍が待ちうけている奥の広間へ着いた。将軍は、ハリー卿と握手をして、長いテーブルの上座に腰をおろした。その右側にハリー卿、左側に総理大臣ともいうべき板倉伊賀守(訳注 老中板倉勝清)が席をしめた。属僚は、ハリー卿の次ぎにそれぞれ着席し、私は卿と将軍との間の腰掛けにかけた。

 

 将軍(訳注 徳川慶喜)は、私がこれまで見た日本人の中で最も貴族的な容貌をそなえた一人で、色が白く、前額が秀で、くっきりした鼻つき-の立派な紳士であった。私は、殿中の礼式にふさわしい言葉を使いこなせるか、どうか、自信がなかったので、いささか不安だった。イギリスと日本の過去の関係についておもしろくなかった事柄は、今一切水に流しました、というハリー卿の言葉を伝えるのに、自分でもおかしくなるほどの失態をやったのを覚えている。

 

  会談が終わってから、一同は洋式の晩餐が用意されている小室へ席を移した。将軍は、食卓の上座についたが、その態度はきわめて慇懃であった。周囲の壁に、三十六歌仙の絵がかけてあった。ハリー卿がそれをほめると、将軍はその中の一枚を卿に贈った。

 

 

 ここでまずサトウは慶喜の容貌について、「私がこれまで見た日本人の中で最も貴族的な容貌をそなえた一人」 と述べています。江戸時代の殿様は、食べるものが一般人とは違っていたことから(やわらかいものばかりだった)、あごが発達せず、全般に細面だったという研究がありますが、慶喜をして「貴族的な容貌」とたとえたというのも、そうした傾向を指していたのでしょう(たしかに、写真を見れば、慶喜は細面の2枚目です)。

 

 また、謁見後の酒宴の席で、その対応が「慇懃だった」とあります。この慇懃という言葉ですが、今の時代、まず思い浮かぶのは「慇懃無礼」という熟語で、高いところから相手を見下すようなマイナスイメージを持った対応と捉えられています。

 

 しかし、少し前の時代までは、「慇懃」を単独で使う場合、「丁寧な礼儀正しい応対」といったプラスの意味で使われていたようです。なので、ここでの慶喜の対応は、いい意味で、丁寧で礼儀正しかったということを言いたかったのでしょう。

 

 概して言えばサトウはこの時の慶喜について「大将軍」的な印象を持ったようですが、これが、1年もたたないうちに、状況が大きく変化します。年が明けて1968年はじめ、王政復古の大号令が出て、朝廷から慶喜に辞官、納地の命令が出ます。

 

 その直後、京都から大阪に戻ってきた慶喜の様子をサトウは伝えています。京都での異変を知ったサトウは、大阪の町(京橋付近)に出て慶喜の到着を待ち構えていました。

 

 ちなみにこの時点で英国公使館では、朝廷内の動向がつかめず、何か大きな政変があったようだぐらいの情報しか持っておらず、少しでも何か知りたいと、慶喜の帰りを街頭で待っていたようです。

 

 その時、あたりが静かになった。騎馬の一隊が近づいてきたのだ。日本人はみなひざまずいた。それは慶喜と、その供奉の人々であった。私たちはこの転落の偉人に向かって脱帽した。慶喜は黒い頭巾をかぶり、普通の軍帽をかぶっていた。見たところ、顔はやつれて、物悲しげであった。彼は、私たちに気づかなかった様子だ。これに引きかえ、その後に従った老中の伊賀守と豊前守(訳注 若年寄大河内正質)は、私たちの敬礼に答えて快活に会釈した。会津候や桑名候(訳注 松平定敬)もその中にいた。

 

 慌ただしく大阪へ戻ってきた幕府首脳陣の様子が伝わってきます。

 

 数日後、サトウは公使パークスのお伴で大阪城に参内、慶喜から直接、京都での政情を聞かされます。それについては、ここでは書きませんが、この時の慶喜の印象をサトウはこう書きのこしています。

 

上様は疲労を覚えたと言って、会見を切りあげた。この五月には、気位も高く態度も立派だったのに、こんなにも変わり果てたかと思うと、同情の念を禁じ得なかった。眼前の慶喜は、やせ、疲れて、音声も哀調をおびていた。  

 

 大政奉還から王政復古の大号令という数百年に一度の大変革の中で、その中心にいた、しかも守る側にいた最高責任者としては、極めて大きな重圧がかかっていたのでしょう。

 

 慶喜はこの直後、多くの家臣に知らせないまま、突如として江戸へ戻り、後世、「家臣たちを見捨てた」と非難されますが、サトウは次のように擁護しています。

 

 慶喜を卑怯者として責めるのは無理だ。慶喜についてだれもそんな批評を下す者はなかった。彼は、おそらく自分の軍隊の勇気を信頼することができなかったのであろう。徳川の頭首を加えぬこの政府は、どうしてやってゆけるか。それはだれにもわからなかった。