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「英国策論」後の各藩の反応-福井藩の「塩対応」

 幕末の英外交官、アーネスト・サトウによる『英国策論』出版後の各藩の反応について。前回の宇和島藩、加賀藩に続いて、今回は福井藩の反応を、サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』を読みながら、見ていきましょう。

 

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宇和島藩の伊達宗城とともに、幕末の四賢候とたたえられた福井藩の松平春嶽だったが、この時、サトウには面会せず。立場上、「塩対応」を命じたか?

 

 前回は、1867年(慶応3年)夏にサトウが金沢を訪問した際の加賀藩の対応をご紹介しました。『一外交官の見た明治維新』を読めば、この時の対応が、今風の表現を使えば「神対応」だったことが伝わってきます。

 

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 しかし、加賀藩領から越前福井藩領に入った途端、サトウら一行は福井藩から一転、「塩対応」を受けることになります。この差は極だっていました。

 

さらに行くこと約三マイルにして、ついに前田家の領内を離れ、越前領へと足を踏み入れた。越前からは警吏二名が出迎えただけで、護衛の姿は見えなかった。(中略)しかし、間もなく身分の低い越前の役人(目付、すなわち助役)が迎えに来たので、加賀の友人たちも最後の決別をして立ち去っていったが、その間ぎわにだれ言うとなく、越前藩が外国人を迎えるのに、もっと身分の高い者を差し向けないのは、あまりにも礼儀をわきまえなさ過ぎるとつぶやいた。

 

 その後すぐにわかったのだが、越前の藩士には内心から私たちを歓迎する気持ちは全然なかった。なるほど食事と宿舎には気をつかって、その点は至って行き届いてはいたが、藩士はいずれも冷淡な態度をとって、私たちをなるべく避けようとしていたのだ。

 

  越前の役人がなぜ懇切を欠いたのか、その理由を説明するのはなかなかむずかしいが、これはおそらく当時の越前藩が立脚していた困難な立場に帰因したのであろう。越前の藩主は実に、徳川将軍家の創始者たる家康の子息(訳注 秀康)の後裔であり、大君家とは濃い親戚関係にあった。藩主(訳注 松平茂昭、ただし前藩主松平慶永が実力者)は大君の地位のあぶないことを充分に予見してはいたが、さりとて天皇の政権復活を企図する薩摩や長州に加担することは考えてなかった。また、私がパンフレットで述べたイギリス公使館の政策なるものを充分に承知はしていたろうが、従来の幕府の綱領には外国人との親睦をはかるということはないので、最近大君の政府が外国人に対する態度を変更したにもかかわらず、われわれに対して大いに冷淡な態度を示すことを自らの賢明な策だと考えていたものらしい。

 

 

  サトウも少し触れていますが、たしかにこのような「塩対応」は開国の初期の段階で幕府がとっていたものを連想させます。

 

 領地が近接していると言っても、外様である加賀藩と親藩の福井藩では立ち位置の差が大きかったということでしょう。

 

 実はサトウの福井訪問の少し前、福井藩前藩主の松平春嶽は、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城、薩摩の島津久光の四候に将軍慶喜を加えた「四候会議」に出席するも、雄藩連合を目指した会議は決裂。これにより、薩摩藩は武力討幕に傾いていくことになります。

 

 春嶽としては、そんな時期に親藩として薩摩に近い英国と接することはとてもできない、という判断だったのでしょう。そんな当時の緊迫した空気感がひしひしと伝わってくる「塩対応」ぶりだと思います。