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「英国策論」から「大政奉還」へー土佐藩の反応

 幕末の英外交官、アーネスト・サトウによる『英国策論』出版後の各藩の反応について。サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』を読むと、土佐藩では『英国策論』の議論をはるかに超えた考え方を持っていたことがわかります。大政奉還の2ヶ月ほど前のことでした。

 

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サトウと会見した土佐藩前藩主、山内容堂。この時の印象をサトウは、「容堂は身の丈高く、すこし痘痕顔で、歯がわるく、早口でしゃべる癖があった。彼は、確かにからだの具合が悪いようだったが、これは全く大酒のせいだったと思う」と書きのこしている。

 

 1867年(慶応3年)8月末から9月にかけて、サトウは公使のハリー・パークスのお供として、徳島と土佐を訪問します。この訪問は、その1ヶ月前に長崎で英国の水兵2名が殺害され、土佐藩士による犯行ではないのかと嫌疑が浮上したことから、土佐藩との談判の必要上、計画されたものでした。

 

 高知に着くと、まず藩の重役だった後藤象二郎がサトウのもとにやってきます。

 

 晩飯の後で、後藤が政治問題を論じに艦へやってきた。彼は、イギリスを模範として国会と憲法を作ろうという考えを述べ、西郷もこれに似た見解をもっていると言った。そのことは、私たちもすでに大阪で承知していた。(中略)

 後藤は、それまでに会った日本人の中で最も物わかりのよい人物の一人であったので、大いにハリー卿の気に入った。そして、私の見るところでは、ただ西郷だけが人物の点で一枚後藤にまさっていたと思う。ハリー卿と後藤は、互いに永久の親善を誓い合ったのである。

 

 

 後藤は、この会見からほどなくして大政奉還の建白書を幕府に提出しますが、すでにこの段階から構想は持っていたようです。それにしても、英国側は後藤をかなり高く評価していたことがわかります。

 

 高知到着数日後、パークスは急用で江戸へ帰ることになり、残ったサトウは英国を代表する形で、土佐藩の実権を握る、前藩主の山内容堂と会見することになります。その様子は、サトウとしても印象的だったのか、細かく記述されています。

 

 私はここで、後藤の出迎えをうけた。後藤は、前大名がすぐにここに到着すると言った。私は、その到着を待つ間に着替えをし、また大勢の後藤の同僚に紹介された。そのうちに、前大名の容堂(訳注 山内豊信)の到着が知らされた。私は容堂のいる二階へ案内された。彼は入口に私を出迎えて、手の指を足の指あたりまで下げてお辞儀をした。私も同様に、うんと腰をかがめて、お辞儀をかえした。

 

  容堂は口をひらくや、お名前はかねがね承知していると言った。私はこれに答えて、面謁の光栄を与えられたことに感謝すると述べた。

 

 容堂が「お名前はかねがね承知している」と言ったということは、サトウの書いた『英国策論』を直接読んだか、後藤を通じて間接的に知ったか、いずれにせよ、その名前と考え方については、知っていたということでしょう。

 

 容堂と後藤は、ルクセンブルグ問題(訳注 ナポレオン三世がルクセンブルグをオランダから買収しようとしたが、プロシアがこれに強く反対し、一八六七年五月のロンドン条約の結果、ルクセンブルグは列国保証の下に永世中立国となった)、憲法や国会の機能、選挙制度などについて質問した。彼らの心底には明らかに、イギリスの憲法に似たものを制定しようという考えが深く根をおろしていた。

 

 ここからわかるのは、当時の土佐藩が『英国策論』の議論をはるかに超えて、大政奉還後の政権のあり方を模索し始めていたということです。

 

 それにしても、こうした発想がどこから出てきたのか-。おそらくは、後藤とホットラインを持っていた坂本龍馬が「ネタ元」であると思われますが、龍馬の死の直前に書かれた「新政府綱領八策」(1867年11月)を見ても、基本項目があげられているだけで、たとえば、「有為の人材を登用する」と言っても、どういう基準で選ぶのか、それが選挙なのか、など具体的な制度についてまでは全く書かれていません。

 

 

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 「新政府綱領八策」は、「○○○自ラ盟主ト為リ」と新政府の盟主の部分を伏せ字にしていることで、しばしば話題になる坂本龍馬による新政府の骨格案。

 

 後藤あるいは容堂としては、龍馬の言う基本的な考え方はわかるが、具体的にどういう制度を作ればいいのかわからず、英国に範を求めた、というのが、今回のサトウとの会談の意義だったのだと思います。